明徳を明らかにする – 大学の道の起点

『大学』にはいわゆる三綱領、八条目と呼ばれる教えが示されており、これを理解することが『大学』を学ぶ上でもっとも重要とされます。三綱領が目指すべき道、八条目はその道に達するための実践的な八原則で、残りはその詳しい解説が述べられているのが『大学』です。

明明徳 – 月光を頼りに暗さを照らす

 
三綱領の最初、『大学』の冒頭で説かれるのが「明明徳」、つまり「明徳を明らかにする」という教えです。

大学之道、在明明徳、

大学の道は明徳を明らかにするに在り。

「徳」というのは本来、人間が有しているあらゆる性質を指します。思いやりや感謝、愛情、物事を処理する才覚、欲望や妬みといった感情も含めて、本来は「徳」です。

ただ、すべてを「徳」と言うと、ちょっと収集がつきません。そこで人間が持つ性質の中でより根本的・本質的なもの、もっとも大切なものを「徳」と呼びます。つまり、人にとってなくてはならないものが「徳」です。

「無為自然」を愛する老荘思想では、人にとってなくてはならないものを象徴して「玄徳」と呼びます。これは要するに自然であり、ただ生きるということを愛する。なにものも所有せず、恃まず、取り仕切ったりということもしない。これはまさに自然・宇宙の姿です。

一方で、儒学ではそれを象徴して「明徳」と呼びます。「明」は月の光が窓(日)から差し込み、部屋の中を照らす形。暗い部屋の中で月明かりを頼りに書を読むように、実生活に活きるものを明らかにし、自覚を深めていくことが「明明徳」です。(参考:徳とは何か – 玄徳、明徳、陰徳

「明徳」を以て、人生の矛盾を統一する

 
では、なぜ「明徳」が必要か。欲望のままに生きてもよいのではないか。「徳」なんて言うと堅苦しいし、古くさい。そう思われるかもしれません。私も以前はそう考えて、老荘の説く「無為自然」が良いと思っていました。

しかし、「明徳」は決して形式道徳ではなく、我々が矛盾の多い人生を生きる上で道を示す、個人の生活に根ざしたものです。

私たちが生きるということは矛盾に満ちています。人の役に立ちたいと思う一方で、気に食わないやつは蹴落とそうと思う。友人の出世を喜びたい一方で、嫉妬する。人に愛されようと思えば、思いやりを持って接し、自ら愛さなければならないと思うが、素直になれない。仕事にしても、価値を出したいと思う一方で、休みたい・遊びたいと思う。

西洋では、これらの矛盾を分析・分割して解消しようとします。例えば、「仕事は生活を支えるための労働」として、仕事とプライベートは切り分ける。なるべく互いを浸食しないようにする。

また、出世で言えば、細かい評価項目を設けて、理知的に矛盾する感情を解消しようとする。「30の評価項目のうち、24個を満たした者をマネージャーにする」。こうすれば、少なくとも理知的には納得せざるをえない。そして、出世できなかった者は「仕事は仕事、自分はプライベートを楽しむ」として、自分の感情に折り合いをつける。

これは理知的な文化に根ざしている西洋では問題が生じづらいかもしれませんが、東洋人はどちらかというと本来は感情的です。分析的・理知的に折り合いをつけようとし過ぎると、自分の感情を整理しきれなくなってしまい、神経が摩耗してしまう。

その矛盾を解消し、統一して高めていくのが「明徳」の役割です。自分はどう生きれば幸福を感じるのか。それを自覚していくのが「明明徳」です。自分の本性を自覚すれば、自ずと矛盾に対したときの振る舞いが明らかになる。

人に優しく生きたい人は、気に食わない人がいるときでも、どうすればその「道」を外さずに済むかを考える。健康を大切に想う人は、身体を損ねない働き方はどうあるべきかを工夫する。尊敬する人に私淑し、身を捧げようと思えば、身命を抛って尽くす。

これらはすべて「明徳」あってこそ、可能です。あらゆる矛盾を「明徳」を以て処理していく。自分の生活を統一し、ひとつの人格として決断を重ね、高めていく。そこに生じる決断は「たち(断ち)」、つまり剣太刀という象徴で示されます。これがつまり、三種の神器の1つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が示す剛利決断の徳に通じます。(参考:象徴に感ずる – 三種の神器が伝える徳

もちろん、分析・分割することは非常に有効です。仕事を処理していく上では非常に力を発揮することを、私も強く感じます。西洋文化も素晴らしい、活かすべきだと思います。しかし、同時に自らが依って立つ「本性」の自覚が必要である。これが『大学』の「明明徳」が教えていることだと思います。

玄徳 – すべてを包含し、形を有しない渾沌

 
最後に簡単に「玄徳」についても簡単に触れておくことができればと思います。

生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳、

生じて而も有せず、為して而も恃まず、長となりて而も宰たらざる、是れを玄徳と謂う。

(老子 上編  第十章)

「玄徳」は先述の通り、自然、完全なるもの、すべてを包含しているものなので、「明徳」も「玄徳」から発しているということができます。『荘子』の「応帝王篇」の渾沌の寓話が、「玄徳」の考え方を示す1つの好例だと思います。

南海の帝を儵(しゅく)、北海の帝を忽(こつ)、中央の帝を渾沌といった。南北の帝は渾沌に招かれ、歓待を受けて、大いに楽しかったので、御礼をしたいと考えた。

南北の帝が考えたことには、「人間には誰にでも目・耳・鼻・口という7つの穴があるのに、渾沌にはそれがない。人はそれらの穴で見たり、聞いたり、息をしたり、食べたりできる。渾沌にも穴を開けてあげよう」ということになった。そうして、1日に1つずつ穴を開けていったが、7日目、人間と同じだけ穴を持った渾沌は死んでしまった。

渾沌は「玄徳」、自然の象徴です。自然の一部である人間もまた、あらゆるものを包含しています。それを無理に自覚しようとするのは身を亡ぼすことである。「明徳」は「玄徳」に至ろうとしますが、それに人智を及ぼそうとするのは苦しみを深めるだけである。

そんな暇はことはしていないで、自然に静かに生きていれば良い。このあたりが「玄徳」を旨とする道教が農民を中心とする大衆に受け入れられた所以とも感じます。

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