『易経』 – 窮ずれば即ち変ず

『易経』は儒学における五経(書経、詩経、易経、礼記、春秋)の1つです。易は占いの思想という印象が強いですが、生命、自我、社会生活などあらゆる自然の生成化育の原則を、統計的な観測に基づいて整理した書だと理解しています。

「陰陽相対(相待)」の原則を根底に据えて展開される内容は老荘的な概念も多分に含んでおり、個人的には処世哲学を説く書としては最高峰の1つだと思っています。

変化こそ永遠 – 陰陽相対(相待)の哲学

 
岡倉天心の『茶の本』には、

変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵(ブラフマン、サンスクリット語で「力」を意味する単語から来ており、インド哲学やバラモン教における宇宙の根本原理・最高原理)の昼と夜である。古きものの崩壊によって改造が可能となる。

(岡倉天心 茶の本 第六章 花)

とあります。『易経』では、その変化の原則を「陰陽相対(相待)」という概念で説きます。

「陽」は分化発展の象徴であり、目に見える力の発揚を示します。一方、「陰」は統合含蓄の象徴であり、万物を現実として定着させ、生み出す力です。この2つの作用によって、万物は創造され、衰亡していく。その生成化育には自然として自ずから順序があり、その原則を説くのが『易経』です。

「陽」は天であり、乾であり、男性的・父性的な徳、「陰」は地であり、坤であり、女性的・母性的な徳とされます。それらのどちらか一方だけでは、決して生成化育が成立しない、それぞれは相対していると同時に相待つものであるという点が「陰陽相対(相待)」という考え方の面白いところであり、本質だと思います。

窮ずれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し

 
『易経』の生成化育、造化の作用を非常に象徴的に表現しているのが、以下の一節だと感じます。

易窮則変、変則通、通則久、
窮ずれば即ち変じ、変ずれば即ち通じ、通ずれば即ち久し。

(易経 繋辞下伝)

あらゆるものは絶えず変化していきます。その変化はどこかで窮まる。そうすれば、また次なる相に変化する。不変なるものは決して永遠にはなりえず、変化こそが永遠です。変化することで「通じ」、「久し」となる。

その変化は統計的・経験的に体系化されますが、陰陽の作用という根本原理によって説明できるとするのが『易経』の立場です。

処世哲学としての『易経』の魅力

 
変化の体系化がどう活かされるかというと、それは将来の予測、つまり予言として活用されます。未来を見通す力は卓越した洞察力によるものですが、古来、未来を見通す力を持つ者は聖人であり、また、神を下すものであり、神秘的な能力とされました。

そこで『易経』が占いと結びつきます。陰陽はときに男女、天地、花実と根幹などあらゆる現実の象徴として表現されるため、その解釈の自由度は『易経』の神秘性を増し、一面では怪しさ、胡散臭さを増します。

ただ、その本質はあくまで変化の体系化であり、社会生活においては非常に高度な処世哲学だと私は思っています。そこで、『易経』を変化の原則を見据え、自在に人生を生きるための智慧として活用したい。そう想い、「処世哲学としての易経」として学びたいと考えました。

具体的な内容はこちらのサイト(別ウィンドウが開きます)でご紹介しています。

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