目的合理的な相互的行為

問題解決の定義は様々にあるが、私は「問題解決とは、目的合理的な相互的行為である」だと思う。もしくは、「相互的な目的合理的行為」としても良い。

目的合理性を先に持ってくるか、相互性を先に持ってくるかは、本質的には共通だと思うのだが、認知的には「問題解決をしよう」という発想から出発した方が、行為としてスムーズだと感じる。後者のように相互性を先に持ってくると、相互的行為という点に焦点が当たって、コミュニケーションや理解に対する偏重に陥りやすいように思う。私はあくまで理解ではなく、解決に焦点を当てたいので、ここでは「目的合理的な相互的行為」という表現にしたい。

 

「目的合理的」であるのか、「合理目的的」であるのかも大切な問題だと思う。そもそも目的があるのかどうかについては、本来的には無くて、ある人が意志として目的を持つのである。その目的はその人にとってのみ合理的であり、その合理性が行為を定めていく。

「合理目的的」と言った場合には、これとはまったく異なる構造になる。まず「合理」がイデオロギーとして存在し、その合理性が目的を定め、その目的は目的を定めた合理性を正義とする行為を生じさせる。自己完結的な機械として、行為が生まれるというわけである。

 

ものすごく単純に言うと、「手段が目的になる」といったことが「合理目的的」な行為の代表であろうと思う。目的に対して、手段は多様に存在しているのが普通だが、その手段を限定してしまう。一般に、点ではある目的は、線である手段に比べると広がりが小さいのだと思うが、手段の限定によって、目的の広がりはさらに小さくなってしまう。

さらにその小さな目的に対して、手段を限定する。そのうちに、非常に狭い世界での最適化を探究し続ける(それを「探究」と呼べるかどうかは別にして)ことになってしまう。これは非常に知性の無い行為だと、私は思う。

 

ここで言う「知性」は、相互的行為と通じている。相互的行為であるとは、立場を入れ替えても、同様の(もしくは近しい)体験を得られることだと思う。実際に解決に対して、その問題に関わる人々が納得して恩恵を得られていて、別の立場になることに抵抗がないようであれば、それは相互的行為と言える。

知の働きは、広く、深く、多様な直観と思考だと思う。概念としてのリベラルアーツは、知に近いように思う。

 

まず目的があって、その合理性が限定的であることを当事者が知っている。その合理性で押し切るのか、相互的に価値観を取り入れるのか。それによって何を得て、何を失うのか。そういったことを認識し、理解しながら、行為を探るのが、問題解決だと思う。

問題解決に取り組む人には、その目的が我儘なものであることについて、責任が伴う。その責任を「合理」に押し付けるのは、無知性なことだと思う。もちろん、そのような行為は成立するし、それを無知性と捉えるかどうかは価値観なのだが、私としては、責任は自分の我儘によって生じているという方がしっくり来るし、問題解決に対して純粋であると思う。

 

なるべく純粋に物事に向き合っていた方が、美しいのではないかと思う。