平坦な世界

平坦な世界ではどこにでも行ける。どの方向にも特別な意味がない。途方に暮れると見ることもできるし、自由であると見ることもできる。

世界は、平坦で滑らかになりつつあるように思う。自分においてのみ、かろうじて、自分が「特別」である可能性は残っているかもしれないけれど、世界において「特別」であったり、「代替不可能」であることは望みようがないと感じる。

 

How McKinsey Destroyed the Middle Class“に、管理の精度が高まることで中間管理職、結果として中産階級がいなくなるという議論があり、興味深いと感じた。

さらに「The gig economy is just a high-tech generalization of the sub-contractor model」という。UberやDiDiのドライバーは、優れた高級ドライバーになることはあっても、ドライバー以上には絶対にならない。Amazonの配送業者は、永遠に配送をし続ける。連続的な中間が存在しない、究極的な下請けモデルだからである。

 

たぶん、人は計画と管理を求めてきた。同時に、平坦さは1つの夢だったのだろう。そして、計画的な資本主義は、結果として社会主義に似た平坦な社会を実現しているように思う。

別にポジティブでも、ネガティブでもないし、おそらくは適度に競争があり、適度に平等な、好ましい社会であるようにも感じる。もう、戻ることもないとも思うので、その平坦さを見つめていかないといけないなと思う。

指摘

自己満足に過ぎないのだけれど、自分がなぜ、どういう想いで、どういう思考で、どういう行動を取っているのかについて、自分なりに捉えておくことは大切だと思う。

他人は自分ではないので、自分の行動の原理や内容はわからない。わからないからなのかはわからないのだが、自分の行動に対して「間違っている」という指摘は日常的に受けるものだと思う。

 

間違いを指摘すると、それ自体が「間違っている」と指摘される可能性がある。間違いを指摘する人は、多くの場合、間違いを指摘されるのが怖いから間違いを指摘しているので、「自分が間違っている」という状況を避けるために「みんなが言っている」という表現を好む傾向がある。

まったく不便なものだが、間違いを指摘されると、人間は反射的に動転してしまう。「みんなが言っている」と言われると、みんなが敵のように見えてくる。仕組みがわかればなんということはないのだが、陥りがちな罠だと思う。

 

正直なところ、他人が僕のことを「間違っている」と思うかどうかについて、僕はあまり興味がない。僕は僕でしかないので、出来る範囲で、想うようにやるしかない。僕は僕のことを正しいとは思っていないけれど、仕方がない。

僕は間違いを指摘されること、その指摘によって自分の感情や思考、行動を捉え直して、修正できるところがあれば修正する、ということが嫌いではない。そもそも、興味がない他人からの指摘をすべて聞く理由もないので、自分の感情・思考・行動へのインプットとして捉えて、適切な範囲で処理するのが良いのかなと思っている。

視界

確からしい結論を導くために多くの情報が必要なのかというと、必ずしもそうではないと感じる。

もしかしたら、判断できる範囲においては、情報量と結論の確からしさは比例するのかもしれない。一方で、情報を多く保有し過ぎて、どのように考えて良いのか分からなくなる、ということもある。

 

人間というのは案外に不便なもので、何を見るのかということについて、かなり意識しないとコントロールできない。かつ、それを完璧にコントロールすることは不可能である。

真剣に考えようとすればするほど、見ようとしてしまう。しかし、見たものからの情報の受け取り方を制御することは困難なので、大事なことは「見ないようにする」ことだと思う。大抵のことは、見ていないからどうにかなっている。

 

いざ追い込まれた時に「見ないようにする」ためには、普段はむしろ良く観察し、なるべくシンプルでクリアなビジョンを得ようとすることが大切なのではないかと思う。焦っているタイミングで物事をシンプルに、クリアに捉えることは極めて困難で、通常は視界は煩雑さを増し、情報処理は混乱する。

渦中にはいない、経験の豊かなアドバイザーが近くにいれば、そういった方に話を聞くのも良いと思う。剣を振るいながらは、戦局はなかなか見えないものである。

 

経験は視界を更新してくれる。嵐が去った後には、そこで見たものを自分なりに捉え直し、自らの視界がより研ぎ澄まされていくと良いなと思う。

変換器

人は嘘をつく。意識的に、というより、驕りや懼れといった情動により、脳が無意識に処理しているケースも多いと思う。自己の人格を維持するために、必要な反応だろう。「嘘」とは実は自身の中には無くて、他人の中に見出してしまうものなのかもしれない。

同時に、人は他人の言葉を正しく捉えることはできない。こちらも、驕りや懼れといった情動によって、また、自身の思考空間の狭隘さによって、「きっとこうだろう」という認知を、「相手はこう言っているのだ」と認識してしまう。

 

ある友人は、「人と人の対話の間には、変換器がある」と言う。とても優秀な友人で、100人くらいの会社で経営と執行に取り組んでいる彼らしい、実践的な理解だと思う。

変換器のせいで、言葉はうまく伝わらない。変換器が存在する前提で情報を伝えるためには、相手との信頼係数が高い状態が必要だが、信頼係数は有限で、それを不用意に消費して無理やり情報を伝えると、次回の情報伝達は困難になる、と。世の中で言われる「心理的安全」みたいな概念も近い何かを表現しているのかもしれない。

 

まったく悪い意味ではなく、僕は人は嘘をついてしまう存在だと思っている。加えて、どんなに正確に言葉を紡いでくれたとしても、それを理解する能力は少なくとも僕にはないので、仕方がない。実務上は別に嘘でもなんでもよくて、相手と取り組むと決めた物事が進むことが大切だと思う。要はどれくらいの嘘なのか、どれくらいの隠し事があるのかを現実に問題が起こらない程度に見定められれば良い。

同じ構造で僕も嘘をついているはずなのだけれど、自分がなぜ、どのように嘘をついているのか、ついてしまうのか。そのあたりはもう少し知りたいなと思う。

RPG

「RPGでどんなに強くなっても、現実の世界で強くなったわけではない。それに気付いた時から、ゲームに取り組むのが怖くなった。」

現実と空想の境界は、普通に思う以上に曖昧だと思う。ライトノベルの世界には、「転生トラック」というものがあるらしい。トラックに引かれて、違う自分が始まる。それは現実のすぐ隣に空想を願う心のように思う。

 

高校生の時に演劇に惹かれて、数ヶ月の間、演劇部に所属した。自分が役割(ロール)であるというのは、安心できることだと思う。

何かを演じることができるのであれば、どんなものでも演じられる。だから、何者かであるということは、何者でもなくても良いということだと思う。少なくとも、そんな風に僕は思っていたのだと思う。

 

実際には、何かを演じることができるというのは幻想で、演じようとすればするほど、その人の本性が明らかになると感じる。逆に、もし本当に演じてしまえるのなら、何者でもなくなってしまう。人格は崩壊してしまうだろう。

それがどうしてなのかは、はっきりとはわからないが、幻想を望む心はその人の本性をきれいに映し出してしまうように思う。少しずつで良いので、自身に没頭するように生きていけるようになると良いなと思う。

スタンス

極端は好ましくないという前提の下で、お金は割と大切だと僕は思っている。非常に扱いやすいのが良いところだと思う。

詳細な議論は尽くしきれないので置いておくとして、お金があれば一定は納得感がある。また、「人格で解決」したり、「人間関係で解決」するのは難しい気がするが、「金銭で解決」というのはそこまでの技術を必要としない感じがする。たぶん、高度に代替可能であること、非人格的であることが関係しているのだと思う。

 

人間が如何なる存在か。何に拠って動くのか。「お金で動く」と考えるのは、言い換えると人間の性質の核に「利」を置く考え方だと思う。

人間を非常に自然的な存在(玄徳)と捉えるといわゆる無知の治、「無」ということになる。そこから人間として磨くべき人格(明徳)みたいなものを見出すと「徳」。さらに、社会の形成に紐付けて調和を愛するようになると「礼」。社会の調和にルールの必要性を見出すと「法」となる。もちろん、他にもいろいろな考え方があるだろう。

 

なるべく治めないというのも、徳(人格)によって治めるというのも、礼(調和)によって治めるというのも、法によって治めるというのも、利によって治めるというのも、スタンスの問題、もっと言うと好みの問題だと思う。

利や法はわかりやすい一方、少し概念化され過ぎているので、「お金と幸せは相関しない」みたいな議論も起きやすい印象がある。人間はなかなか厳密には生きられないので、スタンスの1つとして、有用性を理解しておくのが良いのかなと個人的には思う。

権力

権力は、それを行使する者にとって毒性を有する。これは歴史の常識であると、London School of Economics and Political Scienceで政治科学部長を務めたラスキは『カール・マルクス』において指摘している。

It is a commonplace of history that power is poisonous to those who exercise it; there is no reason to assume that the Marxian dictator will in this respect be different from other men.
(“Karl Marx”, Harold J. Laski, 1921)

 

権力は「暴力」と混同されやすいが、システム機能として権力の純粋な性質を検討することは重要だと思う。権力はときに暴力的だが、暴力ではない。むしろ、権力を行使できないから暴力を用いると見た方が自然だと感じる。

権力は「いつでもあらゆる箇所において行使しうるもの」ではないというヴァレリーの指摘は、本質的だと思う。「もしある権力が常に、また任意の時機に、その勢力範囲のあらゆる箇所においてその実力を発揮することを要せられたならば、その各箇所における実力は零に近い」。

 

権力を行使できる時機、および箇所は実は非常に限定されている。権力を「預金」みたいなものだと考えると、その残高は潤沢ではないのだろう。

権力においては、行使できる/すべき時機と箇所を見定めることが肝要であると思う。すべきでない時機・箇所に行使すると、いとも簡単に破産に追い込まれかねない。

生成変化とデザイン

アンリ・ベルグソンの『時間観念の歴史――コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』の中に、「子どもが大人になる」という命題が取り上げられている箇所がある。この命題は、現実においては極めて当然に見える。確かに、子どもは大人になるように思う。

しかし、精確な論理という点では不可能な命題となる。論理は「子ども」を精確に、完璧に完成された子どもとして定義する。同様に「大人」も完璧に完成された大人である。論理がまったく譲歩せず、完成し静止した「子ども」「大人」という実在から出発すると、論理的な移行は不可能なわけだ。

 

「子どもは大人になるものである」とすれば、「子ども」は完成された実在ではなく、「決してすっかり全部子どもということはない子ども」の「決してすっかり全部大人ということはない大人」への生成変化が絶えず起こっているということになる。

そんなことは当たり前じゃないか、と思うかもしれない。しかし、人間というのは思った以上に静止した概念に縛られている。

 

葉っぱの絵を描く際に、「緑色で描いてはいけない」という話がある。茶色であったり、黄色であったり、赤色であったりで描き始めなさい、と。

落葉樹のような植物における「緑色の葉っぱが茶色になる」という命題について、現実として大きな違和感を抱く人はおそらく少ないのではないかと思う。葉っぱは枯れると茶色になって、落ち葉として樹々から落ちていく。つまり、「緑色の葉っぱ」は絶えず「茶色の葉っぱ」へと生成変化しており、その内部に茶色がないとおかしいというわけである。だから、「よく見て描きなさい」と。

 

デザイン行為は、対象を静止させようとする傾向がある。止まっていないと、要素を扱いづらいし、デザインを完成させることが難しい。しかし、本来は静止していないものを静止させようとしたり、デザインを完成させようとすることは、かなり矛盾を含んでいる。

茶道にはまったく詳しくないが、千利休は日常使いの茶碗を好んだとされる。焼かれた姿よりも、使われる姿の中に美しさを見い出したということではないだろうかと感じる。生活という生成変化を、デザインに取り入れようとしているように感じる。

 

いわゆるアートにしても、戦略であったり、サービスであったりのデザインにしても、ある瞬間に捉えたものから出発すると思う。しかし、捉えた瞬間は次の瞬間には「今」ではない。

普遍的なものに魅力を感じるのも、世界や現象が絶えず生成変化していることを感じているからだと思う。普遍性と美しさの関係はそれぞれの好みだと思うが、少なくとも生成変化とデザインが密接に関係したものであることは真実に近いのではないかと思う。

かなしさ

当たり前の話だけれど、人間はそれぞれに「かなしさ」を持っていると思う。そうであるにも関わらず、日々を過ごしていることはすごいことだなと思う。

当たり前のように笑顔で過ごしている人の「かなしさ」に触れると、それこそ感動を覚える。僕にはとても出来そうにないなと思う。

 

人それぞれだから、「かなしさ」の度合いを測ったり、比べたりすることはできないけれど、それを有していることを感じさせる人と、感じさせない人がいる。

感じさせないことは、本当にすごいと思う。なんて強いのだろう、なんて美しいのだろう、と。少なくとも、僕はそんな風に感じる。

 

何かありそう、とすら感じさせない美しさは、天が与えた才能と呼んでも良いくらいの力を持っていると思う。話をしていると、こちらまでなんとなく洗われる感じがする人がいると、僕はなんとなく思っている。

生きているといろいろあるから、もちろん愚痴が出ることもあるだろう。関係性にもよると思う。掘り下げていけば、美しくないものも見えてくるはずだろう。

 

相手との距離感にも大いに依存していて、仲良くなると案外、嫌なやつかもしれない。ただ、そういうことはここではどうでもよくて、そういう美しさ、清らかさはあるよなと思う。

まあ、単純にその人のことを好きとか、嫌いとかというだけの話なのかもしれないのだけれど…。

解決の源泉 – 学習を可能にするもの

人間であったり、機械であったりにおいて、学習を可能にするのは「中間イメージの存在」であると言われる。中間イメージの在り方は人間と機械で異なるのだろうと思うが、中間イメージが知覚のグループ化や一般化を可能にし、ある認識に基づいた行動(実際的な解決行為)を導く。その全体をなんとなく「学習」と呼ぶのだと思う。

例えば、「ネコ」というイメージは我々が目にするネコそのものではなく、ネコに基づいた(おそらくは単純化された)中間イメージで脳もしくは機械の中に格納されており、それとの照合によってネコと判じられる。この中間イメージをどう構成していくかが、学習という行為と関連している。

 

飛躍的に進歩した自動翻訳の機械学習の1つにおいては、(例えば日本語から英語への翻訳だとすると)まずインプットされた日本語を中間イメージによって英語に翻訳する。そうして翻訳されたアウトプット(英語)を例えばGoogle翻訳で再度、日本語に戻す。

最初の日本語と最後の日本語の意味的な距離をレーベンシュタイン距離などのアルゴリズムを組み合わせて評価し、その距離を最小化する方向へ中間イメージを調整していくと「学習」が発生する。

 

専門家ではないので誤っている部分もあるかと思うが、概念的にはおおよそこのような感じのことが為されているのだと思う。注目すべきなのは、知覚のみから中間イメージの構成および調整を行うことができないことである。

知覚のみから中間イメージを構成しようと思うと、知覚のグループ化、さらには一般化を行う必要がある。しかし、中間イメージを可能にしているのは、意味の距離を測ること、つまり「意味を伝えようとする」という行動であって、知覚ではない。行動が存在しないと、知覚はグループ化や一般化のとっかかりを得ることが出来ず、すべてを別の事象として扱わざるを得ないだろうと思う。

 

問題解決においては、一定においては結果がすべてだと思う。解決できたか、できなかったか、である。もちろん、解決の度合いはあるが、解決できたかどうかは問題解決という行為を支える重要な根幹だろうと思う。

解決できていればおそらくは正しさが含まれているし、解決できなければ何かが間違っている。そうと解釈するしかない。だからこそ、問題自体が間違っていると悲惨なことになる。

 

解決とは、行動である。行動によってしか、問題解決は前に進まないと思う。

解決できない場合、つまり行動が思うように進まない場合に、知覚をねじ曲げようとするのは、人間の厄介なところである。中間イメージ(認識)ですらなく、知覚(世界それ自体)をねじ曲げてしまうと、話がややこしくて進みづらくなってしまう。繰り返しになるが、解決を可能にするものは行動しかない。行動はイエスか、ノーである。

 

本題である問題解決とはずれてしまうが、中間イメージの実態がよくわからないものであったり、評価が困難なものであったりは、機械より人間が担った方が合理的なのかもしれないと思う。

一方で、評価のみが重要な事柄については機械に任せた方が合理的なように思う。