袂(たもと)を分かつ、もしくは袂別(べいべつ)という表現がある。
論語の子罕第九に、共に学ぶことはできても、共に歩いていくことができるとは限らないという。さらに、共に歩けたとしても、共にひとところに立てるとは限らない。共に立てたとしても、共に権ることができるとは限らないという。
否応なく、人は袂を分かちながら生きていくと思う。むしろ、袂を連ねているというのが幻想なのかもしれない。
人は共に学び、共に歩くと安心してしまう。期待してしまう。しかし、共に立ち、共に権る。変化しながら、同じものを見つめていくというのは容易くないどころか、極めて困難だと思う。
何は共有していて、何は共有していないのか。それを見定めることが重要だと思う。他者と自己は少なくとも同一ではないのだから、どう似ているのか。どう違うのか。そこはなるべくシンプルに見定めていくことが調和のためには必要だと思う。
言うまでもなく、最初から袂は分たれている。彼の袂と、我の袂が同じであることはない。しかし、共に歩くことができる時もあるだろう。特定の問題については、あるいは権ることもできるかもしれない。最初から分かたれているのだから離れる時は離れれば良いし、ごく稀には、また連なることもあるかもしれない。
そのあたりが現実的なラインなのではないかと思う。僕には、僕が見ているものがあるのだから。