今日

精神的な探究ではなく、実際的な合理において、今日を大切に生きる、精一杯に生きるという主張には大きく2つの流派がある(と、少なくとも僕は思っている)。つまり、「今日が最後かもしれないから」ということに根拠を置く立場と、「い...

善悪

何が善で、何が悪であるか、ということはなかなかわからないことだと思う。善悪というのはやはり難しいことで、相対主義やポジショントークの域を出てそれらを判じることは、少なくとも僕には不可能に思える。 同時に、現代の行き過ぎた...

純度

人間は、いくらでもぼんやりと生きることができるけれど、ぼんやりと死ぬことは難しいのではないかと思う。死ぬということは、小難しいことを考えなければ、やっぱりはっきりと死ぬと思う。 いかにその人らしく明瞭に振る舞い、いかにそ...

自在

何かを幸せや不幸せと結びつける思考は、僕はなるべく避けたいと思う。もちろん、個々人が何か(例えば、自分の存在)の拠りどころとして、自身の幸せと何かを結びつけて、尊んだり感謝したりするという行為はそれぞれの自由だと思うけれ...

若いころは、もっとこう、自分はちゃんとした存在だと思っていた。「ちゃんとした」というのは性質が優れているという意味ではなく、ヒトとしてのカタチというか、「個人」として、明確な境界を持って存在していると考えていた、というこ...

透過光、反射光

ちょっと何が本当の原因なのかはわからないけれど、ディスプレイのような透過光メディアと紙のような反射光メディアでは、学習特性が異なるという研究がある。 現時点でのメディアやデバイスの性能では、紙の方が長期的な記憶定着に有利...

歩道

深い地下にある降車駅からエスカレーターを4本ほど上がって地上に出て、すぐ目の前にある横断歩道に向かって歩道を横切ろうとしたところで、歩道を自転車が通り過ぎようとするのを感じた。乗っていたのは小学3-4年生か、5年生くらい...

壮年

僕はおおよそ壮年を終えて、中年になっている。もちろん人によるのだろうと思うが、青年というのは何も持っていなくて、何かを手に入れたいと望むけれど、それが何かもわからず、なかなか手に入らない時期だろう。無論、失うほどのものも...

分別

幼いころというのは、分別がない。自分と他者の違いが曖昧で、世界は混沌としていて、どこからどこまでかはわからないけれど、そんな融合した世界をそのまま受け止めて、嬉しくなったり、楽しくなったり、悲しくなったり、辛くなったりす...

怪我

先日、気付かないうちに腕を擦りむいていた。年に数回くらいは、どこで怪我をしたんだろうと思うような小さな傷や、ちょっとした油断で刃物や紙で指や手を傷つけてしまうことがあるように思う。 歳を取ると、例えば全力で走っていて盛大...