幻想

僕たちが普通に見ているものは、脳が描いた幻想(ファンタジー)だという。それが儚い、とかいうことを主張したいわけではなく、物事をそのままに見ることはできないというシンプルな事象の話である。

一方で、僕たちは「あれはリンゴである」とか、「コップに水が入っている」といったことを驚くほどの一致を持って、身近な人と共有ができる。まるで同じものを見ているように、だ。

 

脳の機能としては、「それが何か(What)」を処理するストリームと「それはどこにあるか(Where)」を処理するストリームは別の回路として、並行して処理されるらしい。

境界に関する情報と、位置に関する情報が統合されて、記憶に導かれて、僕たちはあるものを見る。そんな風に考えると、他人とわかり合うなんてことは土台無理としか思えないのだけれど、僕たちはなんとなく、何かを共有して生きている。

 

視覚の話ではないけれど、例えば、好きな人と手を繋ぐと触れた箇所がたしかにぴたっと吸い付いているように感じる。晴れて気候の良い日に芝生に大の字になって寝転んでいると、青い空が頭の中に流れ込んでくるような感覚を覚えることがある。

僕たちはそういう幻想に生きているし、そういう幻想を描けなくなったら、人生は少し寂しいものになってしまうように思う。

積木

正義は、積み上げられた積み木の、パーツのどれか1つのようなものだと思う。

例えば、積み木でお城を作ったとして、その1番上にはある「積み木」がある。それを掲げて、人は「これが正義だ」と言う。あなたもこの「積み木」を積みなさいと言う。ただ、その「積み木」の存在は、その下に積まれたたくさんの積み木たちによって成立している。どれか1つの積み木の位置が少しズレただけで、お城は簡単に壊れてしまう。

 

もちろん、「正義」と呼ばれるからには、その積み木たちはコンクリートで塗り固められていたりもするだろう。1つや2つの積み木を抜いたからといって、容易に崩れることはないかもしれない。ただ、まったく土台がないお城の屋根を作ることはやはりできないだろう。

そう考えると、すべてとまではいかなくても、かなりの文脈を共有できていなければ、正義は共有できないということになる。現実世界では、文化や価値観、経済的な環境、地理的な環境、…といった様々な文脈が存在している。そして、どれか1つが共有されていないだけで、簡単に争いが起きる。共有されている気分の人たちが正義を語り、共有されていない人たちは批判される。ずいぶんと滑稽だと思う。

 

だから、正義なんてものは無い、と僕は思う。あるのは、好きか嫌いか、だ。争いはたいてい、好き嫌いの話だと思う。ただ、人間は群れる生き物だからなのか、仲間を求めて、正義を作る。疎外しなければ、分断しなければ、仲間になれない。

どうすれば他者と繋がれるのか、僕にはしばしばわからなくなる。疎外したり、分断したりしてまで仲間が欲しいのか、ときどきわからなくなる。世界が積み木の作品展だとすれば、できることなら積み木の声に耳を澄ませて生きてみたい。

文章

いつもそうしているわけでもないし、それでうまくいっているというわけでもないのだけれど、なんとなく、書きやすい文章の書き方というものがある。

 

僕は基本的には、ざっくりと物事を理解する方が得意で、イメージや図解が頭に浮かぶとうまく捉えられたのかなと感じることがある。一方で精緻に考えていったり、理解していくのは苦手で、全体の構造と整合しない情報が出てくると頭を抱えてしまう。そういう時はおそらく、捉えている構造が間違っているのだと思うので、捉え方から考え直す必要があるのだろう。

いずれにせよ、僕が文章を書く時は何かを体験したり、本を読んだりしていて、ざっくりと言葉だったりテーマだったりが書いてみたいものとして浮かんでくることから始まるような気がする。ただ、実際に書いてみると、当然だけれどもう少しちゃんと考えないといけない部分や、調べないといけない部分が出てきて、考えたり調べたりしているうちに最初に考えていた構造も変化していって、なんとなく最終的な形に落ち着く。

 

うまく文章が書ける時は、最初に捉えた構造でそれほど違和感なく、最後まで一気に書けてしまう。逆に、ごにょごにょ書き直し続けてしまって、最後まで構造もあまり定まらないような時は、そもそもテーマがちゃんと捉えられていないのだろうと思う。

おそらく人によって、得意な考え方も書き方も違うのだろう。僕には僕の思考の癖があって、どうしても僕のやり方で書こうとしてしまうけれど、それではうまくいかないこともあるので、もっと上手に考えたり、表現できたりすると良いなあと思う。

期待

期待を裏切られた時、人は憤る。「憤る」というより、怒り散らす、当たり散らすという表現の方が実際には近いかもしれない。

人(人に限らず、あらゆる生き物)はそれぞれが必死に生きていて、どうにか今を過ごしていると思う。これは別にネガティブな意味ではなくて、ポジティブにそうだと思っている。ありのまま、今そこにある世界をそのままに受け入れて生きるというのは、とても前向きで尊いことだと思う。

 

その中で、勝手な期待などは不要なようにも思えるのだけれど、人はどうしても何かを期待して、そして裏切られて憤る。期待や予想、予測という機能は、おそらくヒトの進化や発展を支えてきた大切な機能だと思うが、時として暴走することもある気がして、僕はそういった暴走はなんだか悲しいなと感じてしまう。

期待をしない、はおそらく難しいし、何かの発展を妨げてしまうように思うけれど、あまりにも勝手な期待は少しでも避けられるよう、工夫ができると良いなと思う。まあ、あらゆる期待は勝手なので、自分の「勝手」を知るということなのかもしれない。

 

これは僕自身もそうなのだけれど、人にはそれぞれにスイッチがあって、そのスイッチの周辺で何かが起きると勝手な期待をしがちなのかなと感じる。暴走するとなんだか悲しくて、後悔もしてしまう。なかなか他人に優しくはなれないけれど、自分自身は少しでもありのままに世界と向き合えるように工夫していけると良いなと思う。

居場所

人がそこを「居場所」だと思うのは、どうしてだろう。なんとなく、居場所を求めている人はたくさんいるなと感じるのだけれど、どうあれば、そこが居場所だと思うのだろう。

「お友達」や「仲良し」という言葉を使う人の感覚も、僕にはよくわからない。そういう言葉は社交的な関係を指す場合に使われている気がするので、そういう意味合いの特殊な言葉なのかもしれない。本質的な関係性とは関係なく、同じ何かに所属しているというくらいの意味で使われているようにも感じる。

 

一度、見つけた居場所がずっと居場所であり続けるかというと、そうでもないように見える。ただ、それは本当は居場所ではなくて、仮宿なのかもしれない。厳密に居場所を求めると、寸分とずれないことが必要になって、それはあまり現実的ではないと感じるので、すべてを仮宿と考えるか、広がりのある範囲をおおよその居場所と考える方が現実的だろう。

居場所を「いてもよい場所(いなくてもよい場所)」と捉えるか、「いるべき場所(いなくてはいけない場所)」と捉えるかでも話が違ってくる。前者であれば、例えばお気に入りのカフェとか図書館とかも居場所になるだろう。一方、後者で考えると、それはもはや牢獄であるように感じる。

 

「お友達」や「仲良し」は、その言葉の意味とは裏腹に、打算的で牢獄的に僕には少し感じられてしまう。「あなたはここにいるべきだ」「お友達なのだから、あなたもここにいなくてはいけない」という命令、脅迫に聞こえるのかもしれない。

居場所は、求めると手に入らないと思う。居場所は無いくらいの方が生きやすいのかもしれないとも思う。なかなかそこまで思い切ることはできないけれど、今日いてもよい場所、今日いてくれる人があれば、それが幸せだと思えると良いなと思う。

役割

誰でもそうなのかもしれないけれど、僕は誰かと深い関係を築くのが苦手だという意識が強い。深い、もそうだし、ほとんどの人とは長い関係を築けない。

コンサルティングの仕事をしていた頃は、いわゆるリピートをもらうことも苦手で、だんだんどうやって振舞って良いのかがわからなくなった。もちろん、初めてのお客様も苦手だし、リピートで信頼をしてくださっていたり、こちらの性格や事情を理解してくださっていることは楽だったり、ありがたかったりはするのだけれど、期待値というのがよくわからなくなってしまって、関係を続けることに嫌気がさしてしまうのだと思う。

 

最近は歳をとってしまったからか、気付きも気遣いもできなくなってしまったなと感じるが、小さい頃は比較的に周りを気にする子どもで、特に大人からは「よく気が付く」と言われることもあったように思う。同級生や先輩・後輩と上手に関係を築けたかというと、それはむしろ苦手だったけれど、大人に対しては、今は何が必要とされているのかを感じるのに敏だったのかもしれない。(こう表現すると、嫌な子どもな感じがしてしまうけれど…笑)

ただ、それはただの癖みたいなもので、別に役に立ちたいとか、褒められたいとかもあんまり思ってはいなくて、つい先読みをしてやってしまうに過ぎない。振る舞いや勉強についてはなまじ器用なところがあったので、僕としては別にやりたいわけではなくて、ついやっているだけなのに、いつの間にか器用な子だと思われてしまって、その役割を演じなくてはいけなくなるような空気が息苦しかったのかもしれない。

 

おそらくはそういうわけで、僕は人と長い関係を築くのが苦手だと思っている。特にある時期からは、自分はほとんどの人間や物事には関心が薄いということを自覚するようになったので、大して関心も無くて、本質的に関係があるかどうかもわからないものに関わることをつい煩わしいと感じるようになってしまったように思う。

ちなみに、自分のそういう考え方はあんまり良いことだは思っていなくて、あらゆる縁は大切なものだろうと思っている。良くないなあとは思いつつ、つい役割は面倒だと思ってしまう。どうも我儘でいけないなと思う。

外側

外側があるとは知っていても、そう簡単に外側を意識することはできない。それと同時に、外側を知ることが幸せというわけでもない。人間は誰しも、内側に生きている。

井の中の蛙、とはよく言ったものだけれど、そう考えている誰かもまた、井戸の中にいる。誰もが井戸に生きているし、他人の井戸を笑うことはできない。誰かの井戸を笑うことは、自分の井戸を笑うことと、ほとんどなんら変わらないと思う。

 

どういう人に憧れるかというと、むやみに批判的でない人、誰かを蔑んだりしない人、他人に期待をしない人、そして、誰かのお世話をする人かなと思う。自分にはどれも当てはまらなくて悲しい気もするけれど、なんとなく言葉にしておかなくてはいけない気もしたので、記しておく。

もうひとつ、今を必死に生きている人に憧れる。必死にもがいて、今だけを見つめて生きていくくらいしか、愚かな人がまともにある術はないと思う。僕たちは井戸の中で生きているけれど、それが井戸の中なのか、井戸の外なのか、ということは問題ではなくて、僕が僕を生きることができているかどうかが大切だと思う。

 

外からの刺激、というもの自体は存在するけれど、それをどう処理しているかというと僕の内側が勝手に解釈しているだけだと思う。それでも僕は、他人からの批判が怖くなったり、他人が嘘をついているのではないかと恐れてしまう。

世界が優しいかどうか、なんてことは関係なくて、僕がどうありたいかだし、僕がどうあれるかが大切だと思う。そんなことを思うのは、自分にはそれができていないからだけれど、生きていくにはどうしても強さが必要だなと感じる。

マッチ

僕が子どもの頃、多くの飲食店、喫茶店はもちろん、寿司屋や焼肉屋、居酒屋やスナックなどにはマッチが置いてあった。店名や住所、電話番号などが書いてあって、箱の大きさや形は意外といろいろあって、持ち手は木のものもあれば、紙のものもあったと思う。

おそらくは煙草を吸う客のために置かれているもので、席の灰皿の上に置かれていたり、レジの横に置いてあった。何故だかは覚えていないのだけれど、子どもの頃、それを集めるのが趣味で、食事に行くと大抵は貰ってきていた。

 

我が家はわりと外食が多かったので、中高生の頃にはかなりの数が集まっていて、なんとなく捨てることが出来ずに残していたが、大学進学で実家を離れた後、しばらくしてから捨ててしまった。

集めていた時もそれほど熱心にコレクションしていたわけではないし、そもそもマッチが箱いっぱいに詰まっているのはなんとなく危険な気もするのだけれど、ちっぽけで意味がない感じが気に入っていたのか、それなりに愛着を持っていたように思う。

 

当然だけれど、普通の感覚ではマッチが自分だとは思わないし、マッチを捨てたところで自分が損なわれるとも思わないだろう。僕の場合はマッチだったが、小さい頃にお気に入りのぬいぐるみやカバン、タオルなどがあって、それが無いと不安だったという人もいるかもしれない。

大人になって、お金や肩書きを失うと、自分が損なわれたように感じる人もいるかもしれない。もちろん、それらには実利があるということもあるかもしれないが、本質的にマッチやぬいぐるみと何が違うのかというと、そんなに簡単に決めきれないところがあると思う。敢えて捨てる必要はないし、大切にすることも大事だけれど、執着するのも少しおかしいという点は似ているのではないかなと感じる。

分布

人間の存在であったり、言葉であったりは、だんだん曖昧になっているように感じる。曖昧というよりは、点だったものが分布になっているという方が近いかもしれない。

僕は元々、多面的な存在というイメージを人間に持っていて、例えば、状況によって人間の人格や役割は異なっているし、物事というのは光の当て方次第で意味合いが変わると思っている。しかし、それはあくまで一定しっかりした境界を持った個体で、ある瞬間で観察すれば、その人がどういう存在なのかをある程度は知ることができるという想定である。

 

ここで曖昧とか分布と呼んでいるのは、古典力学と量子力学の違いに近いと思う。古典力学の観察と量子力学の観察は本質的に異なっていて、古典力学と違って、量子力学では物理量は分布や揺らぎを持っていて、観察によって一意に定めることはできない。

僕は古典的な人間なので、どうしても古典的なイメージで世界を捉えてしまうけれど、おそらく今の若い世代にとって、存在が揺らいでいることは自然に理解できるのではないかと思う。オンライン/オフラインで同時に複数の人や物事と向き合っていて、ある瞬間の自分が一意ではなく揺らいでいるというのは、自然なことなのではないかと思う。自分は多面的であるというより、自分には揺らぎがあるという方が自然なのではないかと思う。ちょうど、100年前には不自然に感じた量子力学を、今の僕たちが自然に感じるように。

 

この現象の原因はいろいろあると思うけれど、例えば相互作用(コミュニケーション)の急激な増加は原因の1つだと思う。そして、これからの人間にとっては、曖昧なものを曖昧なままに受け取ることが自然になるのではないかと感じている。

正確(それが何を指すのかは難しいが)に伝えることではなく、なんとなく伝わっていって、人によっては「なんとなく」の中になんとなく本質を見つけていく。そして、その本質は人それぞれによって異なる。これは本質的に「なんとなく」であって、確かなものをなんとなく感じているわけではない。まだあんまり考え切れてはいないけれど、なんとなくそういう気がする。

現実

「教育現実」という言葉がある。教育の場において現実とされる概念世界、というくらいの意味だとなんとなく理解している。社会において現実とされる概念世界である「社内現実」に対して、その言葉が使われるらしい。

例えば、死や老い、性や差別などについて、社会現実に対して教育現実をどの点に置くかといったことが問題になる。過度の教育現実は(もしくはあらゆる教育現実は)洗脳的であるかもしれないが、社会によって繁栄を実現している動物である人間にとって、教育現実は必要であるという面もある。僕たちは社会を破壊しない範囲で批判的であることが可能だろうと思う。社会が破壊されれば、批判する対象が失われてしまうのだから、批判は社会への信頼や甘えによって成立している。

 

教育現実は例えるなら「壁」であり、基本的には教育という行為や現場、それに関わる人々を守るためにある。しかし、情報化によって壁が意図通りに機能せず、むしろ環境を破壊する要因にもなり得る。壁の外の世界を容易に知ることができることによって、壁の中では指導者に対して不信が発生する。「先生は、本当のことを教えてくれない」と感じる。

「壁」であるのはなにも教育現実に限らず、社会現実も壁なのだから、『進撃の巨人』という漫画で描かれているような複数の壁に囲まれた世界というのはメタファーとして実際に近いと思う。より大きな壁を支配している人は、おそらく自分のことを偉いと思っているが、壁の外では無力である。一方、壁の存在が疎ましいからと言って、壁の先に解があるのかというと、普通はあまり無いと思う。壁の外に解が乏しいから、壁が存在している。人間は自ら壁を作ってしまう生き物であるとも思う。

 

僕たちは意識するしないに関わらず、壁の影響を受けている。なるべくなら、それに自覚的でありたいと思うけれど、思考は通常は外部との交信によって成立しているのだから、世界と僕はある意味で同じものであり、自覚と無自覚の境界は曖昧だと思う。

自覚的とは、境界を意識することだと思う。一方、境界が曖昧であることが感性においては大切だと思う。なるべく自覚的でありながら、たゆたうように生きることができれば、少しだけ世界に触れられるのではないかなと感じる。