純度

人間は、いくらでもぼんやりと生きることができるけれど、ぼんやりと死ぬことは難しいのではないかと思う。死ぬということは、小難しいことを考えなければ、やっぱりはっきり死ぬと思う。

いかにその人らしく明瞭に振る舞い、いかにその人らしく必要なことだけをはっきりと言い、はっきりと死ぬか。それは生きる上で、1つの死活問題ではないかと思う。ぼんやりと生きていると、はっきりと「ただ死んで」しまう。そして、その人がなんであったのかははっきりしない。

 

なんにせよ、死ぬ時ははっきりと死ぬけれど、そうなってくるといかに「その人らしく明瞭に、必要なことだけ」ではっきり生きられるかということが肝要になってくると思う。これはなかなかに難しくて、ピュアに生きる、純度高くあり続けるということを、人は容易に見失ってしまう。すぐにぼんやりと振る舞い、ぼんやりと言葉を発してしまう。

生きていると迷う。迷って、はっきりとしてみたり、ぼんやりとしてみたりということを繰り返す。ただ、やはりどこかで、自分というものをはっきりさせることが大切だし、そこに歪みがあると、どうしても魅力は出てきづらいのではないかと思う。

 

はっきりしているから、愛されるということではない。むしろ、はっきりしているからこそ、好き嫌いは分かれるだろうと思う。そうだとしても、生きるということは自分をはっきりさせていくことなのではないかと思う。

自在

何かを幸せや不幸せと結びつける思考は、僕はなるべく避けたいと思う。もちろん、個々人が何か(例えば、自分の存在)の拠りどころとして、自身の幸せと何かを結びつけて、尊んだり感謝したりするという行為はそれぞれの自由だと思うけれど、何かと幸せの関係をさも一般論のように他人にも受け入れさせようとするのは、乱暴になりやすい。そういう乱暴な議論など抜きにしても、生きるのは十分に興味深いし、楽しめるものだと思いたいと僕は思っている。

また、自身の中の話であったとしても、特定の何かに依存することは好ましくないと僕は感じてしまう。「何かが無ければ僕ではない」ということはないし、「何かが在るから僕である」ということもない。何かと自分を結びつけてしまうと、何かが無くなれば自分も無くなるということになってしまう。それは少し危ういように思う。

 

例えば、金銭的な豊かさと幸せを結びつけようとする人がいる。同時に、金銭的な貧しさと幸せを結びつけようとする人もいる。そうすると、金銭的な豊かさは幸せに繋がっていると同時に、金銭的な貧しさは幸せに繋がっているということになる。

もしくはどちらとも繋がっていなくて、少なくともある程度は独立しているから、どちらの事象とも同時に成り立つ可能性もある。繋がっているのか、繋がっていないのかは分からず、どちらともセットで語れるのであれば、結局はポジショントークのようになってしまう。金銭的な豊かさや貧しさと幸せや不幸を結びつけようとすること自体のどこかに無理があって、その議論をしている間は、安心を得づらいのではないかと思う。

 

それは金銭に限らず、地位でも名声でも評判でも、友達や恋人や家族でも、スキルや能力や資格でも、境遇や容姿でも、趣味や日々の過ごし方でも、同じような議論が成り立つように思う。

結局のところ、いろいろなことはどちらでも良い。どちらでなければならない、ということはない。そうであるにも関わらず生きているというところに多少の難しさを感じてしまうのであれば、それは僕の至らなさ、工夫の足りなさなのだろうと思う。自在というのは、そういうところにあるのではないかと思っている。探究するとは、つまるところは探究しないところにあるように思う。

若いころは、もっとこう、自分はちゃんとした存在だと思っていた。「ちゃんとした」というのは性質が優れているという意味ではなく、ヒトとしてのカタチというか、「個人」として、明確な境界を持って存在していると考えていた、ということである。

そう思っていたのは、西洋的な教育のせいかもしれないし、幼少期から青年期にかけてアイデンティティが形成されていく過程では、通常そう感じることが多いのかもしれない。

 

とにかく、僕は「僕」であって、誰かではないのだから、他者や世界とは区切られた存在なのだと思っていたし、だからこそ、もっとちゃんとしていないといけない、もっとちゃんとあれるはずだと思っていたように思う。

現実には、僕はあんまりちゃんとしていなくて、存在していて良い理由がわからなくなってしまいがちだったように思う。もちろん、存在していて良い理由なんてものは無いので、自分が自分であるほど、不安を感じやすい。「ちゃんとしている」から不安というのは、なんとなく皮肉だと感じる。

 

生きていると否応なく、いろいろな物事と関わりを持つことになる。そうして、いろいろな物事と関わりながら生きていくと、段々とどこまでが「僕」で、どこからが「僕」でないのかが曖昧になっていく。家族のように身近な人たちであっても「僕」の一部でしかないのと同時に、そういった人たちがいない「僕」がどういう「僕」なのか、僕にはわからない。

僕は何かとの関係において生きていて、「僕」という存在は僕であって、僕ではない。すべてが「僕」だとも言えるし、どれも「僕」ではないとも言える。そして、今の僕は必然的、かつ、偶然的に僕であって、たまたま運に恵まれて、こうして存在している。そういったものに対して、なるべく働きかけていくのも運命だし、流れるままに受け入れていくのも運命だと思う。「生きる」ことに専念するのは難しいけれど、そこに工夫があるのだと思う。

透過光、反射光

ちょっと何が本当の原因なのかはわからないけれど、ディスプレイのような透過光メディアと紙のような反射光メディアでは、学習特性が異なるという研究がある。

現時点でのメディアやデバイスの性能では、紙の方が長期的な記憶定着に有利で、細かな分析・批判に向いており、ディスプレイの方がおおまかな理解やパターン認識に向いているという研究が多いようである。

 

短期記憶についてはあまり差異が出ないであったり、パソコンでタイピングしているとその定着効率が高いといったりという主張もある。当然、書く作業における身体的・神経的な影響もあると思う。同じ紙であっても、色合いや感触によって異なるとも思う。ウェブやアプリだとリリース前に気づかなかった間違いに、リリース画面で気づくということもよくあるので、モードの違いも大いにあると思う。

立場も含めて、仔細に入ると混乱しそうなので、ここでは特性に差異があって、細かい部分にも気づきやすくて、記憶に残りやすい傾向がある紙と、パターン認識に向いていて、くつろいで眺めていられるディスプレイ、くらいで理解しておきたい。

 

「何かを通じて、何かを見る」という日常的で、かなり慣れていると思っている行為でも、自分の認識がそれほどわかっているわけではない。多少はわかっていることがあるとしても、わかっていることを認識して行為ができていることは少ない。

自分が何を見ていて、どういう仕組みで、なぜそのように認識するに至っているのか。それがどうあると、自分にとって好ましいのか。もちろん四六時中、そんなことを考えて生きているのも難しいのだけれど、自分にとっての世界の感じ方を知ろうとすることは、僕にとってはとても大切なことのように思う。

歩道

深い地下にある降車駅からエスカレーターを4本ほど上がって地上に出て、すぐ目の前にある横断歩道に向かって歩道を横切ろうとしたところで、歩道を自転車が通り過ぎようとするのを感じた。乗っていたのは小学3-4年生か、5年生くらいだろうか。

礼儀正しい少年で、スピードを緩めて止まってくれて、「どうぞ」という感じで手振りと目で促してくれたので、子どもを優先して通してあげた方が良いかなと思いつつ、その振る舞いに感謝して、そのまま目配せと軽いお辞儀をして先に通させてもらった。

 

自転車は車道が基本だけれど、13歳未満は歩道を通行することができる。彼はちゃんとヘルメットも被っていて、とても自然に歩行者に道をゆずってくれて、僕もそこまでぎこちなくならずに彼の好意を受け止めて、謝意を返せたような気がして、少し嬉しく感じた。

というは、完全に僕の主観なのだけれど、思い込みだったとしても、相手も自分もポジティブを共有しているような感覚というのは、優しい思いやりの良さを感じさせてくれると思う。

 

様々で複雑な事情は置いておいて、人と人(に限らず、動物でも植物でも、場合によっては無生物でも)の間に、何か互いを肯定するような感情が流れるというのは、幸せなことだと思う。身近な存在だと、なんだか難易度が高くなってしまうような気もするのだけれど、笑顔で、軽く目を見て挨拶を交わしたり、感謝を伝えたりすることの効用はとても大きいと思う。

本当に何かが共有されているのかはあやしいし、実際には独立した感情がそれぞれに発生しているだけなのだろうと思うけれど、そういうものが「思いやり」というものに近いのかもしれないと思う。

壮年

僕はおおよそ壮年を終えて、中年になっている。もちろん人によるのだろうと思うが、青年というのは何も持っていなくて、何かを手に入れたいと望むけれど、それが何かもわからず、なかなか手に入らない時期だろう。無論、失うほどのものもあまり持たない。(少なくとも、自身ではそう感じていることが多い)

壮年になると、それぞれに分相応に、いくつかのものを手に入れ始める。そして、失うものは少ない。それが中年になると、手に入るものが少なくなっていき、失うものは増えていく。おおまかに見て、そういう構造があるように思う。

 

これはまあ、自然の道理なので、ある程度の努力はしながらも、基本的にはこのような構造、このような法則を受け入れながら生きていくことが、個人的には大切ではないかと思う。というか、なかなかそういう気分にはなれないからこそ、きっと真理だろうし、その中でいかに生きるのかが取り組むべき問いとして大きいのではないかと思っている。

これを悲しいというのであれば、季節の巡りも悲しいし、草木が朽ちていくのも悲しくなってしまう。しかし、秋は自らの終わりを悲しいとは思わないだろうし、草木も朽ちていくことを悲しいとは思っていないように思う。自らではないにせよ、また巡り、また芽吹き、また朽ちる、その一部に過ぎない。

 

二十歳すぎまで感じていた虚無を、最近はまた感じるようになった。ただ、その「虚無」が同じものなのかはわからなくて、若い頃は明日に何も見出せないような感覚だったのに対して、近ごろはずっと続きそうな何かを恐れているように感じる。おそらくもっと歳をとると、「死という虚無」を意識するのかもしれない。

とにかくも、今日を生きる、ということに尽きると思う。

分別

幼いころというのは、分別がない。自分と他者の違いが曖昧で、世界は混沌としていて、どこからどこまでかはわからないけれど、そんな融合した世界をそのまま受け止めて、嬉しくなったり、楽しくなったり、悲しくなったり、辛くなったりする。とても美しいことだと思う。

それがだんだんと、彼我の違いを意識するようになってくる。そうなると、いろいろなものがはっきりしてくる。はっきりしてくると、思考は分析的になる。こちらはあちらでない、こちらとあちらは違う、ということを考える。なんでも、はっきりしていないといけないような気持ちになって、神経質に考えるようになる。その危うさにもまた、張り詰めた美しさがあると思う。

 

自分がそれくらいの年齢のころにも、似たようなことを考えたように思うけれど、久し振りに中学生と話して、「幸せについて考えることには、不幸せからの逃避という意味がある」というのを聞かせてもらった。幸せは、少なくとも不幸せではない、ということだと思う。

僕自身は「幸せがあるから、不幸せがある」と10代の頃は強く考えていて、「不幸せにならないために、幸せになってはいけない」と思っていた。主張は少し違うかもしれないけれど、分別的で、分析的という点では、中学生の彼の話と似ていると思う。なんとなく融合して、混沌としていたものに対して、それがなにであるかを少しでもわかりたいという気持ちがそうさせるのだと思う。

 

そういう分別を経て初めて、物事は混沌としているという分別が少しずつ身に染みてくるように思う。混沌としたものを混沌としたままに受け入れて、そうでありながらその中に秩序、つまり美しさを見つけていく。そういう分別がある人間になりたいし、少しでもそれが身に染みたのであれば、それをなるべく忘れずに、失わずに生きていきたいものだと思う。

怪我

先日、気付かないうちに腕を擦りむいていた。年に数回くらいは、どこで怪我をしたんだろうと思うような小さな傷や、ちょっとした油断で刃物や紙で指や手を傷つけてしまうことがあるように思う。

歳を取ると、例えば全力で走っていて盛大にころび、怪我をするというようなことは少なくなる。もしそんなことがあれば、子どもとは違って、それこそ取り返しのつかないくらい大怪我になってしまうだろう。顔と肘と膝を擦りむいた、なんてことでは済まないと思う。

 

そういう大怪我は避けた方が良いというのはもちろんなのだけれど、ふとした怪我というのは、ふとしているがゆえの、生活への影響がある。例えば、肘を意識しないくらいのふとしたところで擦りむいてしまうと、実はそのふとしたところは日常的にいろいろなものに触れやすい箇所だったりする。そうなると、擦りむいた箇所を繰り返し擦りむいてしまうことになって、なかなか治らない。そして、ちょっと痛い…。

人差し指の先なんかもそうで、ナイフや紙で不用意に傷つけてしまいがちだけれど、僕の場合は考え事をしたりするときなんかに、なんとなく指先に触れてしまうことがあって、それが傷口を開くような動きになってしまう。

 

そう考えると、気付かないくらいの怪我というのは、まさに薄皮に守られて、普段はなんともなく過ごせているだけなのだなと思う。少なくとも僕は、いろいろなものにぶつかりながらも、その薄皮によって自分は無事なのだと思っている。

これはふとした怪我もそうだし、例えば身体的な不調だったり、精神的なバランスだったり、そういったものも似ているのではないかと思う。大抵のことは無事の範囲内から少しはみ出しただけで、回復が一気に困難になるし、その薄皮は意外と丈夫で、意外と脆い。

エスカレーター

今年の春は、ベランダに小さなプランターを並べて、いくつかの野菜を育てている。あまり難しいものだとうまくいかないと思うので、なるべく簡単そうなものということで、ラディッシュ、小松菜、カブ、ニンジンの種を蒔いてみたのだけれど、我が家のベランダの日当たりの良さと気候の良さのおかげで、無事に芽を出して、少しずつ大きくなっている。

成長の様子を見ていると、当然だけれど、野菜によって得意な気候が異なっていて、小松菜がぐんぐん伸びるのに対して、ニンジンはもう少し気温が上がらないとしっかり伸びないらしい。種ごとの個性もあって、人間の都合としては生育を見ながら適切に間引くこと、と一般には説明されているので、「どれも元気そうだけど…」とためらいながら少しずつ間引いたりしている。

 

芽が出て、それが少しずつ伸びていくと嬉しいし、そもそも花ではなく野菜にしたのは、最終的には食べられるというよこしまな気持ちもあって、毎日お水をあげているのだけれど、毎年、土を作って、育て方であったり、品種であったりを改良し、より自分が目指す育て方を探究していけるかというと、そういうイメージはあまり持てていない。

どんなに些細なことでも、何かを続けていくということは大変なことだと思う。まして、それが高度な技や知識となれば、次元も違ってくる。とても永く続く窯元を継ぐ陶芸家の方が、技を継いでいく事象を「下りエスカレーターを逆向きに上がり続ける」ようなものであると表現されていて、それはとてもわかりやすいなと感じた。

 

歩みを止めると失われていくしかない。しかし、上がり続けても上に登っていけるかはわからないし、まして「高み」のようなところは遥かに遠い。永く続いているものであればあるほど、断絶した時代も経験しているだろうから、その「高み」がどこなのかもわからなくなってしまうだろう。

学問であったり、武道であったり、どんなものでも探究とは「下りエスカレーターを上がり続ける」ことだと感じる。僕には何か継がなければならない「高み」があるわけではないのは、ある意味では恵まれている。終わりのない下りエスカレーターを上がり続けるようなことを、自分なりにどこまで想像しながら生きていけると良いなと思う。

否定

否定されるというのは、誰しもそれほど得意ではないと思う。否定に対して肯定的に反応するように訓練することは一定可能だと思うし、それはとても有効だとも思うけれど、結局はその前提として、否定への拒絶反応があるから肯定的に受け入れようという発想になる。

否定を過度に許せないことで陥る失敗は、それこそ失政や犯罪のように大きなものから、精神的・心理的な病、ちょっとしたイザコザや人間関係の不和といったところまで、多岐に渡る。

 

否定に対する反発は何かを生み出す原動力にもなるので、もちろん必要な側面も十分にあるが、大なり小なり否定されるということはあまりにも日常的なので、そのたびに刺激反応してしまうのはちょっと大変だなと個人的には思う。

感覚的には、おそらく人は何かを大切にしていればしているほど、否定に対して拒絶的に振る舞ってしまうのではないかと思う。その最たるものの1つは自分自身の存在だと思うが、何かしらの属性や性質を自分自身に引きつけすぎてしまうと、その属性や性質を否定されたことを存在に対する否定だと感じてしまって、過度な拒絶が起こりやすい。

 

それは「こだわり」のようなものと結びついているので、一概によくないとは言えないし、むしろポジティブに働くこともあるのだけれど、それでもあまりこだわりの強い人と過ごし続けるのは苦しいようにも思う。

否定と拒絶は、当然、肯定とも繋がっていて、肯定されることで自己と性質の結びつきが強くなった結果、拒絶もまた強くなる。大切なことは、どんなものに対しても、適度な結びつきであろうとすることなのかなと思う。自分自身についても、まったく簡単ではないけれど、それが自由であるためには大切だと思う。