精神的な探究ではなく、実際的な合理において、今日を大切に生きる、精一杯に生きるという主張には大きく2つの流派がある(と、少なくとも僕は思っている)。つまり、「今日が最後かもしれないから」ということに根拠を置く立場と、「いつまでも明日が続くかもしれないから」ということに根拠を置く立場である。
前者はとても直接的に、今日の希少性に着目していると思う。明日は来ないかもしれない。だから大切にしないといけない。ただ、だったら今日は好き勝手に生きて、誰かに迷惑をかけてもよいのだ、自分の今日だけ大切にすればよいのだ、という主張にも通じる。
後者はやや間接的に、今日が及ぼす影響力に着目している。今日が終われば、明日が来るだろう。それはいつまで続くかもわからない。だから、今日という1日の積み重ねを大切にしないといけない。ただ、どうなるかもわからない明日、1年後、10年後のために何も思って、どう生きるのかという問いは修身のようで、どこか教訓めいている。
今日が最後だからむやみに破滅を望むわけではないだろうし、永遠の明日のために我が身と心をやつせるわけでもないだろう。現実としては、適度な具合に今日を大切に思って生きていくのだろうと思う。
人間は今日のために今日を生きているわけではないけれど、明日のために今日を生きているわけでもない。また、人間は自分のために生きているわけではないけれど、誰かのために生きているわけでもない。今日はとても曖昧なもので、「いま」をはっきりとした自覚の下に扱えるとしたら、それはひとつの達人だと思う。