雨樋

屋根で受けた雨水を流し、導く、雨樋(あまとい、あまどい)という仕組みがある。

その起源は古く、奈良時代(700年代)には仏閣において、その存在が確認できるという。当時のほとんどの建築は茅ぶき・草ぶきで、屋根自体が雨水を吸収するものだが、神社仏閣では瓦ぶきの屋根が使われており、雨水を処理するための雨樋が設置されたようである。

 

繰り返しになるが、雨樋が必要になるのは、水を吸収しない素材が屋根に使われるケースである。そのため、長い間、一般的な家屋に雨樋が設置されることはなかったが、江戸時代になって、都市が発達するようになると広く普及する。

江戸といえば、大火に苦しんだことで有名だが、密集した建物でなるべく火が燃え広がらないように、茅や草ではなく瓦ぶきの屋根が推奨されたという。また、密集した家同士で、雨水がそれぞれの敷地や壁を侵食しないように、設置されたという面もある。雨樋は自分の家を守るためにも、近隣の家を守るためにも必要なものである。

 

当然だけれど、雨樋は晴れた日には何もしていない。しかし、雨というものは必ず降るものだし、時に激しく降るのだから、雨樋(もしくはそれに当たる機能)を持たない家は存在しないだろう。

組織も似ていて、晴れている時には何もしていない人、というのが必要だと思う。つい、「あいつは何もしていない」と言いたくなるし、言われた方も肩身が狭いような気持ちになってしまうけれど、それが組織の持続可能性を高めている。雨樋のように、緊急時の対応力になるのはもちろん、人間の集まりにおいては、そういう人がいることで息苦しさが和らぐという面もある。雨樋というのは自然の理を解した、なかなか良くできた仕組みだなと思う。

朝顔

子どもの頃から、自分が植物を上手に育てることができるという感覚がなくて、上手に庭や畑を作っている人だったり、小さな鉢植えでちょっとした野菜や花を育てている人だったりを見ると、すごいなあと思う。

おそらく、育てやすい植物というのがあったり、土の作り方や水のあげ方のコツがあったり、植物にはそれぞれのリズムがちゃんとあって、それを掴むことが大切なのだろうと思う。

 

僕はどうしても、すぐに成果を求めてしまうところがあって、植物を育てることに限らず、あまり良くない癖だと思っている。物事には仕組みやペースというものがあるので、そういったものを理解し、1つずつ進まないといけないのだと思う。

見通しや計画を立てて、それを意識しながら進めて、違うなと思ったら修正する。いわゆるPDCAみたいな話だけれど、行き当たりばったりで、つい浮き足立ってしまいがちなので、良くないなと思う。

 

この夏はベランダに朝顔があって、1ヶ月以上、毎日のように1輪から、多い日は8輪くらいの花を咲かせていた。花の色は薄紫、青紫、赤紫の3色で、少しずつピークの時期が違ったように思う。1週間ほど、世話ができないので屋内の日陰に仕舞っていたら、時計が狂ってしまったのか、その後の数日は変な時間に花を咲かせていた。だんだん土の力が弱くなってくるような感じがあって、少しずつ、水を蓄えられなくなっていくのも興味深かった。

ただ、朝顔はタネはできるけれど、また育てようと思うかというと、しない気がする。難しさはまったくわからないが、檸檬なんかは使い途もいろいろあるし、ちょっと試してみたいなあという気がする。

場所

学生の頃は、周囲にはアカデミックな仕事に関わる人たちが多く、周りの人たちはそういう話を主にしていたように思う。また、合気道をやっていたので、武道や日本文化について触れる機会も多かった。

仕事を始めると、コンサルティングやコンサルタント的な文化に触れることが多くなった。マーケティングや広告に関わる人とも触れる機会が多く、そういう文化に触れることが増えた。

 

あまりそれが肌に合わなかったせいもあって、今度は採用や人材に関わる人と仕事をすることが増えた。採用や人材の仕事にも特有の価値観や文化があって、周囲にはそういうものに慣れ親しんだ人が多くなった。

その後、財務や金融、主にベンチャーファイナンスの仕事を横で見ることがあって、そこにはまた違った人たちがいた。最近はアートや工藝、ファッションに関わる機会が少しだけあって、そういうものがよく目に留まるようになっている。そこにはそこで、また違う空気や文化が流れているように思う。

 

僕は結局、どんな場所にも馴染めないなと思う。それぞれが有している論理や正しさに、身を投じることができない。それぞれの場所には、それぞれに崇拝されている人物や主張があって、たくさんの正義がある。そして、それは大抵の場合、影響力を持つがゆえに、周囲にいる人々の影響もあって、歪んだ時空を形成しているように、僕には感じられてしまう。

当たり前なのだけれど、人と接していると、すぐに比べたくなる。そうであるにも関わらず、身を投じたり、勝ち負けにこだわり続けることはうまくできない(難しいのは、続けることだと思う)。僕はしばしば、人がどうやって生きているのかがわからなくなる。

クレープ

家のほど近くに、マンションの1階のごく狭いスペースで営業しているクレープ屋さんがある。入り組んだエントランス付近にあるお店で、知っている人以外は見つけづらいだろう場所にあり、午後から夕方の時間帯に女性が(おそらく)1人で経営していて、僕は月に1回行くか、行かないかくらいで訪れる。

生地は普通においしくて、クリームも甘さ控えめで食べやすい。印象としては軽くて食べやすく、個人的には良いお店だと思う。ただ、何か特色があるかというと、メニューや使っている具材はごく普通で(だからこそ、良いのかもしれない)、価格は500円前後。近くに大学があるので、学生の人たちが立ち寄っていることもある。

 

「1日にどれくらい売れていて、お店を維持できるくらいの売上はあるのかな」とか、「午後しか営業していないということは、別の仕事もしているのかな」とか、「そもそも、なぜクレープ屋さんなんだろう」とか、そういうことを思ってしまうのは、我ながら愚かだなと思うのだけれど、つい、そういうことを思ってしまう。

そんなことは余計なお世話だし、僕の価値観でしか物事を捉えられていないことを露呈しているだけだろう。僕としては、お店があると、クレープを食べることができてありがたい、という以上のことはない。そもそも、世の中のほとんどのクレープ屋さんについて、僕は何も知らないし、クレープ屋さんに限らず、そうである。

 

もちろん、僕が住んでいる地域にはスイーツ屋さんがほとんどないので、地理上のメリットもあるだろうし、商品やサービスに工夫もあると思う。ただ、僕がそうやって、あの場所で、クレープ屋さんを始められるかというと、そう簡単ではないと思う。

それは僕にとっては、羨望に近いと思う。

マカロン

お父さんがフランス人だという男の子と話していた時に、彼はお父さんが生まれ育った国に行ったことが嬉しかったのだろう、フランスではこんなことがあったよ、ということをたくさん話してくれた。

「フランスのパンはバゲットっていうんだよ」、「それをサンドイッチにして食べるとおいしいんだよ」「カンガルーに餌をあげたんだよ(これはオーストラリアの話だったけれど笑)」と教えてくれる彼を見ていて、素敵だなあと思った。

 

おいしかったお菓子の話もしてくれて、「クッキーのハンバーガーみたいなお菓子」というのが挙がった。バーベキューのマシュマロサンドクッキーみたいなお菓子かな?そんなのもあるんだなと思いながら、なんとなく話は終わってしまったのだけれど、この話を別に人にしたら、「それはきっとマカロンだよ」と教えてくれた。

なるほど、確かにマカロンはクッキーのハンバーガーみたいなお菓子である。

 

知らない言葉を知ることは、もちろん楽しくて、おもしろいことだけれど、大抵のことは、知っていることの組み合わせだったりもする。知らない単語が出てきたとしても、文脈の中でなんとなく意味がわかることもある。

僕は、誰かの名前も含めて、あまり固有名詞に関心を持てなくて、それは反省するのだけれど(実際に、ちゃんと言葉とその意味を知ることで見えることもたくさんある)、マカロンを「クッキーのハンバーガー」と表現できる才能にも憧れるなあと思った。

襖絵

襖絵、というのは一種のVR(Virtual Reality、仮想現実)である、という体験をした。あるお寺で、非常に優れた襖絵の部屋を見せていただいたのだが、襖絵を描く絵師の方というのは描くにあたって、その部屋に何年も滞在してから初めて描き出すという。その場所の風光や息遣いのようなものを理解した上で、その空間に別の世界を描く。そういう行為なのかなと想像した。

襖絵で彩られた部屋というのは、基本的には薄暗い。そこに、蝋燭のあかりを灯して、絵を鑑賞する。そうすると、ゆらめく炎で、別の世界が浮かび上がる。街中に、突如として山河や龍虎が現れる。それは、VRに似ていると思う。

 

日本庭園は、AR(Augmented Reality、拡張現実)に似ている。単に美しい庭ということではなく、日常のすぐ隣に、ごく自然に仙界のようなものが置かれる。

枯山水になると散策をすることはないけれど、隣接しながら境界によって区切られた桃源郷という感じがして、現実の拡張を感じる。水を使わずに流れを表現するという考え方も、ARマーカーのようだと感じる。

 

現実というのは、常に人間の中にあるものだと思う。VRやARは、人間の中にある現実を引き出す機構のようなものなのかもしれない。僕らはなんとなく、現実と空想は異なるものだと思っている気がするけれど、その境界は思っている以上に溶けているのかもしれないと思う。

生命

たまたま、生命、ということについて考えるきっかけがあった。考えた、といっても、自分の頭できちんと考えられたわけではなくて、そういうことを問題意識を持って考えてる方と立て続けに話をさせていただく機会があって、刺激をもらったということなのだけれど、久しぶりに深く思考したいという気持ちを抱いた。

 

僕はとりあえずのところ、僕は生きているのだろうと思っていて、僕の問題意識はそこから発している。生きていて、どうも積極的に死ぬことはなさそうな僕という存在が、ここに存在してしまう構造に関心がある。僕は確かに「僕」だけれど、それが僕である必然性はない。別に僕でなくても良いのだけれど、「僕」が存在しているというのも興味深いと思う。

化学実験にMiller–Urey experimentというものがあって、その実験では生命が地球上で発生する可能性が示唆されているが、地球外から来たという仮説もある。また、複製における突然変異と淘汰が進化を促すという考え方は有名で、その考え方では基本的には徐々に複雑な生命が生じるように感じるが、Stuart Kauffmanは非平衡系における動的な秩序化によって、生命は最初から複雑な形で生じるという可能性を指摘している。

 

また、生命もしくは意識は時間との関係が深く、Edmund Husserlの「内的時間」というキーワードや、Martin Heideggerの『存在と時間』は、そういう感覚を示したものなのではないだろうかと想像している。僕らが普通に考える「時間」はいわゆるニュートンの時間で、あらゆる系において均質で、等価で、一方向的だが、それは時間発展方程式のために発明されたツールに過ぎなくて、相対性理論は時間の異なる性質を提示している。

どの学問もまじめに学ばなかったことを反省すると同時に、あらためて本棚を漁ってみたいなとも感じた。たまにこういう機会があることは、とてもありがたいことだなと感じる。

断罪

「断罪」とは、罪があることではなく、罪があると決めること、処刑を行うことである。そして、世の中にあるもののほとんどは、罪ではなく断罪だ、と思う。

不安な人ほど、断罪をする。断罪は不安による支配のためのテクニックでもある。不安な人が、不安を利用して、人を支配する。

 

僕自身も、断罪する誘惑に囚われそうになることがある。断罪されることの不安や恐怖に囚われそうになることがある。しかし、断罪とは罪ではなく、誰かがその人自身のために押し付けてくる決めつけに過ぎない。そんな人とはいたくないし、僕自身の判断への評価を不要にぶらしたくはないと思う。

完璧な人、完璧な事象というのはそうは無いと思うので、評価の構造の中には必ず断罪がある。断罪という言葉が強過ぎれば、意味づけとか、価値づけという言葉もあるかもしれないけれど、本質的にはそこまで変わらないように思う。もちろん、バランス感覚は大切だけれど、究極において判断を何かに委ねる危うさが、そこにはあると思う。

 

そんなことを僕が考えるのも、そういう行為に囚われる危うさが僕の中にあるからだと思うし、逃れたいと思っている内は逃れられないものだろう。常に価値判断は必要なのだから、合理的に考えるのが大人だという話もあると思う。

そういう意味では合理的な範囲内で合理的に断罪する分には、それほど嫌悪を抱かない。合理的な断罪というものは、広く合理的な目的のための手段であるべきだと思う。非合理に思える目的に、さも合理的な断罪を用いることを避けたいということかもしれない。

愛憎

恋人であったり、同僚であったり、そういったパートナーとの関係性を考えたときに、相手に暴力的な振る舞いをしてしまうという例はそれなりにあると思う。

DVやハラスメントというところまではいかなくても、信頼を築きたいのか、支配をしたいのか、良くわからないような態度というのは日常的に見かけるように思うし、僕自身、気を付けなくてはいけないと感じることは多い。

 

「沖沖士の哲学者」とも言われるエリック・ホッファーの言葉に、

われわれはある人の愛情を獲得したときよりも、その人の精神を打ち砕いたときに権力意識を強く感じる。ある日、愛情を手にしたとしても、それは翌日には失われるかもしれない。しかし、誇り高い精神を打ち砕くとき、我々は最終的かつ絶対的なことを成し遂げたことになる。

というのがある。ずっと在り続けるより、破滅の方がずっと楽そうに思えるということだろう。その善悪は時々ではあるが、在り続けることの尊さより、失うことの甘美さを僕たちは選んでしまうことがある。

 

今を大切にするためには、明日を信じる力が必要だと思う。明日への期待を持たずに、只今を生きられるとすれば、それは悟りの境地で、もちろん理想はそこにあるけれど、少なくとも僕にとってはまだまだ修養が必要だろう。

愛とは明日への信頼であり、憎しみとは明日への絶望なのかもしれない。本質的にはどちらも盲信ではあるけれど、とりあえず日々を生きるには愛を大切にできた方が良いのかなと思う。

何者か

生きていると、「あなたは何者か」という問いをしばしば突きつけられる。他人はもちろん、自分自身が問いかけてくることもある。

僕にとって自己紹介はかなり難しい部類の行為で、何を言っても嘘だと感じるし、相手に何かを伝える必要なんてあるのだろうかという想いがすぐによぎってしまうので、態度もしらじらしくなってしまう。

 

僕は、何者かになりたいと思っていないのかもしれないということを思う。ただ、何者かでないと不便だということも同時に思うし、何者かであった方が楽そうだということも思う。

年齢や居住地、家族構成などはとりあえずは事実らしい情報なので説明可能だけれど、あまりに意味が広すぎるように思うし、何が得意とか不得意とかは、あまりに主観的で確信が持てない。何が好きで、何が嫌いということはまだ真実に近い感じがするけれど、それは僕にとってしか意味がないように思える。

 

ただ、普段はこの問題は僕の内面においてはそれほど問題にならない。たぶん、自分が何者であるかという問いに対しての関心が薄いのだろうと思う。僕にとっては、僕は僕で良いし、そうでしかあれない。問題になるのは、他人が(おそらく大して関心もないし、理解するつもりでないにも関わらず)「何者なのか」を問うてくることだと思う。

人は、その人が何者を名乗っているか、ということにしか関心がないとすら思える。そして、そういう妄想をするにつけて自分は社会に対して適合的でない、もしくは社会は僕にとって適合的でないということを思う。