喪失感

「なくてはならないもの」というものは、世の中には無いと思っているけれど、愛着であったり、執着であったりといったものはあると思っている。

あるときには気付かないけれど、無くなったときにその存在を感じるものは、愛着もしくは執着のあるものだと思う。そこには「あるはずのものがない」という喪失感がある。

 

無くなったわけではないけれど、数ヶ月前に腕時計をメンテナンスに出した。オーバーホールに2-3ヶ月かかるということで、もうすぐ返ってくるだろうと期待している。

その時計が気に入っていた、大切なものであるということもあるし、僕がわりと時間を気にしてしまう性格であるということもあって、なんとなく寂しい。つけている時には、愛着をほとんど意識したことがなくて、正直、こんなに寂しいと思っていなかったので驚いた。これが「喪失感」というものなのかなと感じた。

 

それがあるときに、愛着や執着を感じるものもある。しかし、愛着や執着を感じるということは、それらはすでに失われ始めているということで、愛着や執着があるものが無くなってしまった時は、喪失感は小さくて、つらさが強いように感じる。

「それが無くなることはわかっていたのだ」という理性が働くのだと思う。すでに喪失していたものが無くなっただけなので、喪失感は理性によってかき消されるが、つらさは感情なのであまり押さえられない。

 

あってもなくても変わらない、と思っているものほど、実際に無くなった時の喪失感は強いように感じる。失いたくないという愛着や執着を持っているものは、持っている時の方がむしろ喪失していく感覚を覚えて、無くなるとつらい。

本当に愛着があるものというのは、どちらなのだろう、なんてことを思う。

チェーンスモーク

「チェーンスモーク」という言葉があるらしい。吸いかけのタバコの火で、次のタバコに火を点けることを表現していて、ヘビースモーカーのことを指すらしい。

僕自身はタバコを吸わないので、この言葉は最近、初めて知ったのだが、どんな領域にも洒落た表現があるものだなと思った。「ヘビースモーカー」より、「チェーンスモーカー」の方が、タバコを吸う情景をイメージしやすいし、何より、艶っぽいような感じがする。

 

タバコというのは、生産される地域というのか、工場というのか、とにかく作られる場所によって、同じ銘柄でもかなり味が異なるらしく、生産拠点が世界中に分散して置かれるようになってからは、「海外旅行に行った空港の免税店で、タバコをまとめ買いする」という行為も、タバコ好きにとってはあまりリーゾナブルではないらしい。

海外で買っても、まずいのだそうだ。何事も、こだわりを持ち始めるとおもしろいなと思う。

 

「電子タバコを吸っている人は、男であろうが、女であろうが、センスがない」というのも、なかなかおもしろい。そんなことを言っているなんて、それこそセンスがない、という人もいそうだが、こだわりがあるということが重要なのだと思う。

個人的には、アイコスは普通のタバコより、少し違和感のある香りを発するように感じる。この瞬間に、この場所でしか燃えることを許されていないような、少しシケたような香り。プルーム・テックは、あんまり香りがしないような印象がある。

 

なんにせよ、当たり前だと思っていたことが、広がりを持っていたり、変化を孕んでいたり、奥深さを秘めているというのが好きだなと思う。

惑星科学

元々、大学の専攻に惑星科学を選ぼうと思ったのは、「僕が生きている」という現象の必然性が、中学生や高校生の自分には、頭で考えてもわからなかったからだった。

自分に生きている価値があるとは思えなかったし、少なくとも、もちろん良い影響もあるのかもしれないけれど、自身の存在による悪い影響があると感じていたので、どうやって生きていいのかの拠り所があった方が良いと感じていたように思う。

真面目な学生では決してなかったので、教えてくださった先生方には少し申し訳ないけれど、惑星科学を多少なりとも勉強して良かったと感じることはいくつかあって、生き方のレベルで尊敬できる先生に出会えたこと、学問や思考の構造みたいなものを理解するきっかけになったこと、地球が別に特別な存在ではないということがなんとなくわかったこと、などかなと思う。

もちろん、宇宙がきわめて広大であるという前提の下だが、地球がそれほど特殊な存在でないことは、存在の必然性というか、蓋然性というか、そういうものを頭で理解する手助けをしてくれる。

 

僕はずっと、「僕が生きているという現象には、必然性がない」ということを問題にしてきたのだが、最近は、「誰かが生きているということは、ある種の必然性の上にしか成立しない」のではないかとも感じる。

僕が死んでいない、という現象がなんらかの必然性の上で成立しているのか、そこにも必然性がないのかは、よくわからないなと思う。「死んでいないことが必然」なら、生きていることの必然性が生じる。死ねないというプログラム、希望を感じるというプログラム、…といったものが、苦楽の狭間に僕たちを生かしているのかもしれない。その不安定性から考えると、生きていることにも、死んでいないことにも、必然性はなく、ある種の「たゆたう」感覚が僕たちを生かしているのかもしれない。

自分も含めて、人間というものを観察していると、それぞれは、それぞれの何かのために必死に生きているように見える。もちろん、意味を見い出すことはとても困難だけれど…。

業や原罪というアイデアに惹かれることもあるが、それも理由づけに過ぎないとは思う。

 

いずれにせよ、「今日できることをやって、今日を生きる」ということ以上のことはできないのに、人間とはずいぶん愚かにできている。