間違えること

友人から、最近の塾の中には、勉強はコンピュータが指導するものであり、少なくともアルバイト社員は、勉強について口出ししてはいけないという仕組みを持つものがあるという話を聞いた。

タブレットに向き合って問題を解き、回答に応じて、次に取り組む問題を人工知能が提案する。機械学習で、テストの点数を上げるために最適な問題の提案方法の精度を高めていく。アルバイト社員がすることは、集中が切れたり、居眠りをしたりしてしまった生徒たちに声をかけることだけだそうだ。

 

間違えない能力を高めるために、間違えることがないコンピュータの方が教師として適切というのは、道理があるように感じる。コンピュータが間違えるのは、アルゴリズム自体の問題であって、特定のアルゴリズム上で、そのアルゴリズムにない処理をする、つまり間違えるということは、基本的には起きない。

そこは、ほとんど何も見ておらず、思い込みの中で勘違いを繰り返しながら問題に向き合っていく人間の脳とは、異なる点だと思う。人間にとって、思ったように考えることは想像以上に困難である。

 

コンピュータが適切に間違え始めると、それとどう向き合ってよいのかという問題は、非常に複雑になると思う。「適切に」というのがまた複雑で、アルゴリズム上にない間違いを、対話している人間にとって適切と感じる範囲でするということになると、あまり想像しづらい。

そもそも、間違えるコンピュータが必要なのかと考えると、それは少なくとも現時点でコンピュータの価値と想定されているものとずれているようにも感じる。

 

逆にいうと、間違えたり、勘違いしたりするところに、人間の思考・試行の独自性があると思う。人間は、きわめてシンプルなゲーム(通常の意味でのゲームはもちろん、テストで良い点数を取ったり、企業が利益を追求したりといった活動も含む)を除けば、目的変数すら容易に間違えてしまう。

きわめてシンプルなゲームに取り組んでいても、間違えることがあるし、揺らいでしまうということもある。

 

だから素晴らしいということではないが、なにかしらの独自性であることは確かなように感じる。

政治学

博士課程で政治学を専攻している友人が、「効率の追求も、幸福の追求もできない政治学を探究していくことの難しさを感じる」と言っていたことが、なんとなく心に残っている。

 

「政治学」とは、政治を対象とする学問分野らしい。では、「政治」とは何かというと、Wikipediaやら何やらを少し読んでみただけでは、「政治とは何かという問いは、なかなかに難しいものだ」という以上のことはわかりづらい。

「社会に対する希少価値の権威的配分」というのは、なんとなくかっこいい。政治が権力と利害対立に関わるものである、というのも、なんとなくそういう気がする。

 

関心(テーマ)によって何に着目するかが異なってくる点は、他の学問や思考とあまり差異はないと思う。惑星科学なら、火星を対象の中心に置く人もいれば、金星を対象の中心に置く人もいるのと似ているように感じる。

何がわかりづらいのかというと、それは対象ではなく、目的変数なのだと思う。

 

学問に対して目的変数という概念を持ち出すのは、やや本質的ではないのかもしれないが、とにかく、例えば経済学であれば「(経済)効率」がそれになりうるし、心理学や社会学であれば「幸せ」のようなものがそれになる感じがある。

しかし、政治学の中心に位置する権力というものが、すでに希少価値(全員に等しく、必要としている分だけ配分できるほどには量のない状態)として定義されてしまうと、少なくとも最大化を目的にはしづらいし、最適化も困難だろうと思う。

 

効率と幸福の狭間にこぼれ落ちるものが、世界には確かにある。それに対峙し続けることが困難であることもまた、確かであるように思う。

知らない範囲

数年前、人工知能というのか、機械学習というのか、ビックデータというのか、単なるコンピューティングというのか、そういうものが流行り始めた頃、プログラムにいろいろなことを考えさせることがブームになった。

その1つに、「コンピュータにレシピを考案させる」というものがあり、人間が試みたことがない食材の組み合わせで、料理を提案してくれるという話を聞いたような気がする。詳細なアルゴリズムや結果については調べていないので、なんとも言えないが、おそらく素材や組み合わせに関するなんらかの評価関数があり、機械学習で「美味しさ(という数値)」が高い料理を考えてくれるといった仕組みなのではないかと思う。

 

よくよく考えると、僕たちが試みているものの範囲はとても狭い。例えば、人は1年に1回くらいは少なくともなんらかの判断をしているだろうと思う。友達や恋人でも良いし、何を勉強するか、何を食べるか、どこに旅行に行くか。なんでも良いが、1年に1回どころではなく、分岐があるだろうと思う。

仮に1年に1回だったとして、まともに判断する回数を50回、つまり、50年くらいだとすると、2^50でおおよそ10^15(1000兆)くらいの可能性が存在する。

 

人類の歴史が1万年(10^4)で、100年間の間に生きている人口が100億人(10^10)くらいだとすると、10^12通りの生き方は試されていることになる。世界人口がずっと100億人の規模であったとは思えないので、 実際はもう少し少ないだろうと思うが、10^15の可能性に対して、試みられているのが10^12だとすると、僕たちは人生の可能性の0.1%くらいしか現実としては検討していないことになる。

当たり前と言えば、当たり前なのだが、人間というのはかなり狭い思考しか持っていないし、なるべく間違えないように選択を繰り返して、全体の可能性の極めて閉じた領域で生きていこうとする生き物なのかもしれないと感じる。

 

知らない範囲は大きい。かなり強い秩序の中で、人間は生きている感じがする。

知らない範囲が大きいということがどういう意味を持っているのか、という問題もとても興味深いと思う。

誰かにしかできないこと

能力から鑑みたときに、僕にしかできないことはない。「僕」に限らず、ほとんどの人間はそうだろうと思う。たいていのことは、(そのモノゴトに対して、一定の適切さを持つ範囲内であれば)誰にでもできるし、誰がやっても良い。

日々の生活でいうと、誰がやっても良いことを、自分がやることになる。その巡り合わせは、その場でしか起こらないような気がする。

 

巡り合わせを受け入れて、向き合い続けることが、生き方として尊いと思う。突き詰めると、すべてのことに意味はないし、代替可能ということになってしまう。突き詰めすぎると、きっと病気になるので、あんまり突き詰めすぎない方が良いのだと思う。

 

巡り合わせた先には、新たな巡り合わせが生じるのではないかと思う。天才には天才の、凡才には凡才の巡り合わせがあって、どちらがより尊いということではなく、それぞれがそれぞれの中に楽しさや難しさを発見することが尊い。

僕は、人生に意味を見出すことは極めて困難であると考える性質だが、巡り合うために生きている、というのはなんとなくそうなのだろうと思っている。

不完全

人間は不完全だ、と言われることがある。生きているだけで、完全である、という人もいる。本当は、そんなことはどうでもよいのかもしれないが、少なくとも、そういう議論はある。

 

惑星や宇宙の勉強をしていた頃、あるいは、量子力学や統計力学を少し学び始めた頃に、見ることや知ることの難しさという概念を知った。

惑星科学には「比較惑星学」という分野がある。地球と他の惑星を比較することで、「地球とは何か」「惑星とは何か」という問いに迫ろうとするアプローチをそう呼んでいる。地球は地球の外から観測できるが、宇宙は宇宙の外から観測できない感じがする。そのため、我々が宇宙について知ることができる範囲の割合は、惑星のそれに比べると小さくなるだろうと思う。

量子力学には有名な「不確定性原理」というものがある。量子力学が扱う小さなスケールでは、物質は粒子と波動の双方の性質を持つ。その物質波の分布の広がりから、観測値には分散が存在する。量子力学はほんの少ししか学んでいないため、定式化には詳しくないが、要するに、完全に定めることができないものが系の性質として存在する。

不確定性原理と混同されることも多いが、「観察者効果(もしくは観測者効果)」と呼ばれるものもある。観測という行為自体が観測している系に影響を与えてしまうという考え方をこう呼ぶ。物理学的な定式化とは異なるが、日常的な観測、というか生活においても、見ているという行為に意図が含まれている以上、正確な観測は不可能だと思う。アンケートを取るという行為が、アンケート結果に影響を与えるというのも似ている。

 

人間の認知にはおそらく限界があるし、少なくとも僕は、「人間が完全である状態」というものを知らない。完全であるという状態がわからない以上、人間が完全であるのか、不完全であるのか、という問いについて答えることは不可能で、もしかしたら、不完全だと感じる現在の自分が、完全なのかもしれないし、やっぱり不完全なのかもしれない。

惑星科学のアプローチで考えると、「比較人間学」ということは可能である。世の中で「人間学」と呼ばれているもののほとんどは、比較と洞察によって成立しているのではないかと思う。人間は生きることで、人間を知るための比較対象を1つ残すことができる。そういうところには、生きている意味があるようにも感じる。

三原色

色について調べている中で、なぜ原色(錐体細胞のバリエーション)が3つなのかも、奥が深いなと思った。

脊椎動物の進化でいうと、魚類・両生類・爬虫類・鳥類は色覚の基礎となる錐体細胞を4種類、持っている種が多いそう。つまり(人間の枠組みで捉えるならば)、おそらく彼らは三原色でなく、四原色なのだろうと思う。

 

色を認識する(錐体細胞が十分に反応する)には、一定の光量が必要、要するに明るい場所でなければいけない。少ない光量(暗い場所)で光を認識する際に働いているのは桿体細胞というもので、波長に対して反応のバリエーションは持っていないが、弱い信号に対しても認識できるため、いわゆる「夜目が効く」ということになる。

 

進化の過程で、哺乳類は日中に活動している巨大な爬虫類や鳥類と競合しないよう、夜に活動する(夜行性)という生存方法を取った(そういった方法を取った種が残った)ため、結果として錐体細胞は衰退し、桿体細胞が発達したと考えるのが一般的だそうだ。

哺乳類の多くは錐体細胞は2種類で、桿体細胞がより発達している。たしかに猫なんかは、人間より夜目が効いていそうな感じがする。

 

ものすごく感覚的に、なんとなく「3」という数字は響きが良いなと思ったりもしていたのだが、意外と「3」は一般的ではなくて、世の中では「2」や「4」が多いというのも面白い。

たしかに、モノゴトは「あるか/ないか」だし、何かが分裂してモノゴトが形成される場合は2の倍数が出現するため、偶数が基底にある可能性が高いのは、確からしい状況だろうと思う。

RGBとCMYK

何かが赤く見えるというのは、赤(と人間が呼んでいる)色の波長の光が目に入ってきていて、その光に対して、網膜の中心部付近に分布する錐体細胞が反応して、脳に信号が送られた状態である。赤錐体は、赤色の波長の光に強く反応するタンパク質で構成されている。

人間の目には3種類の錐体細胞があり、赤・青・緑に対して、それぞれ強く反応する。それぞれの反応で生じた電気信号を脳が受け取り、色として認知する。赤錐体だけが反応している状態で脳が受け取る信号は「赤」と呼ばれ、赤錐体と青錐体が双方とも反応している状態で脳が受け取る信号は「紫」と呼ばれている。「白」は3種類すべての錐体細胞が反応している状態である。

 

色を認知するということは、赤錐体、青錐体、緑錐体の反応強度の調整によって実現している。光を発して色を認知させる場合は、各錐体細胞に与える刺激の強さを調整すれば良いので、赤・青・緑の3色(いわゆるRGB)が光の原色と呼ばれる。

一方、物質に対して色を認知する状態は、その物質がある波長の光を吸収することによって実現する。自然光にはあらゆる波長の光がもともと含まれているので、物質の場合は吸収する色(波長)を調整することで、様々な色を表現する。赤の波長を吸収する物質はシアン(青)という色になる。緑の波長を吸収する物質の色はマゼンダ(赤)、青の波長を吸収する物質の色はイエロー(黄)である。

色の3原色は赤・青・黄と言われることもあるが、正確にはマゼンダ・シアン・イエローである。これにすべての波長を吸収する黒を加えて、CMYK(K:key plate)という表現もある。

 

なぜ、こんな話を調べたかと言うと、単に、赤い絵の具と青い絵の具を混ぜて、紫になるというのが、なんとなくどうしてだろうと思っただけなのだが、調べてみると色々おもしろい。

実際には、ある物質が吸収する波長は特定の波長にピークを持つある分布であり、錐体細胞の反応もピーク波長に対してだけでなく、波長分布に対するものであろうと思う。自然光と、赤い絵の具、青い絵の具、紫の絵の具のスペクトルを比較して、ちゃんと重ね合わせで人間の目が「紫」と感じる波長が表現されるのかは検証していないが、おそらくそうなのではないだろうかと思っている。

喪失感

「なくてはならないもの」というものは、世の中には無いと思っているけれど、愛着であったり、執着であったりといったものはあると思っている。

あるときには気付かないけれど、無くなったときにその存在を感じるものは、愛着もしくは執着のあるものだと思う。そこには「あるはずのものがない」という喪失感がある。

 

無くなったわけではないけれど、数ヶ月前に腕時計をメンテナンスに出した。オーバーホールに2-3ヶ月かかるということで、もうすぐ返ってくるだろうと期待している。

その時計が気に入っていた、大切なものであるということもあるし、僕がわりと時間を気にしてしまう性格であるということもあって、なんとなく寂しい。つけている時には、愛着をほとんど意識したことがなくて、正直、こんなに寂しいと思っていなかったので驚いた。これが「喪失感」というものなのかなと感じた。

 

それがあるときに、愛着や執着を感じるものもある。しかし、愛着や執着を感じるということは、それらはすでに失われ始めているということで、愛着や執着があるものが無くなってしまった時は、喪失感は小さくて、つらさが強いように感じる。

「それが無くなることはわかっていたのだ」という理性が働くのだと思う。すでに喪失していたものが無くなっただけなので、喪失感は理性によってかき消されるが、つらさは感情なのであまり押さえられない。

 

あってもなくても変わらない、と思っているものほど、実際に無くなった時の喪失感は強いように感じる。失いたくないという愛着や執着を持っているものは、持っている時の方がむしろ喪失していく感覚を覚えて、無くなるとつらい。

本当に愛着があるものというのは、どちらなのだろう、なんてことを思う。

チェーンスモーク

「チェーンスモーク」という言葉があるらしい。吸いかけのタバコの火で、次のタバコに火を点けることを表現していて、ヘビースモーカーのことを指すらしい。

僕自身はタバコを吸わないので、この言葉は最近、初めて知ったのだが、どんな領域にも洒落た表現があるものだなと思った。「ヘビースモーカー」より、「チェーンスモーカー」の方が、タバコを吸う情景をイメージしやすいし、何より、艶っぽいような感じがする。

 

タバコというのは、生産される地域というのか、工場というのか、とにかく作られる場所によって、同じ銘柄でもかなり味が異なるらしく、生産拠点が世界中に分散して置かれるようになってからは、「海外旅行に行った空港の免税店で、タバコをまとめ買いする」という行為も、タバコ好きにとってはあまりリーゾナブルではないらしい。

海外で買っても、まずいのだそうだ。何事も、こだわりを持ち始めるとおもしろいなと思う。

 

「電子タバコを吸っている人は、男であろうが、女であろうが、センスがない」というのも、なかなかおもしろい。そんなことを言っているなんて、それこそセンスがない、という人もいそうだが、こだわりがあるということが重要なのだと思う。

個人的には、アイコスは普通のタバコより、少し違和感のある香りを発するように感じる。この瞬間に、この場所でしか燃えることを許されていないような、少しシケたような香り。プルーム・テックは、あんまり香りがしないような印象がある。

 

なんにせよ、当たり前だと思っていたことが、広がりを持っていたり、変化を孕んでいたり、奥深さを秘めているというのが好きだなと思う。

惑星科学

元々、大学の専攻に惑星科学を選ぼうと思ったのは、「僕が生きている」という現象の必然性が、中学生や高校生の自分には、頭で考えてもわからなかったからだった。

自分に生きている価値があるとは思えなかったし、少なくとも、もちろん良い影響もあるのかもしれないけれど、自身の存在による悪い影響があると感じていたので、どうやって生きていいのかの拠り所があった方が良いと感じていたように思う。

真面目な学生では決してなかったので、教えてくださった先生方には少し申し訳ないけれど、惑星科学を多少なりとも勉強して良かったと感じることはいくつかあって、生き方のレベルで尊敬できる先生に出会えたこと、学問や思考の構造みたいなものを理解するきっかけになったこと、地球が別に特別な存在ではないということがなんとなくわかったこと、などかなと思う。

もちろん、宇宙がきわめて広大であるという前提の下だが、地球がそれほど特殊な存在でないことは、存在の必然性というか、蓋然性というか、そういうものを頭で理解する手助けをしてくれる。

 

僕はずっと、「僕が生きているという現象には、必然性がない」ということを問題にしてきたのだが、最近は、「誰かが生きているということは、ある種の必然性の上にしか成立しない」のではないかとも感じる。

僕が死んでいない、という現象がなんらかの必然性の上で成立しているのか、そこにも必然性がないのかは、よくわからないなと思う。「死んでいないことが必然」なら、生きていることの必然性が生じる。死ねないというプログラム、希望を感じるというプログラム、…といったものが、苦楽の狭間に僕たちを生かしているのかもしれない。その不安定性から考えると、生きていることにも、死んでいないことにも、必然性はなく、ある種の「たゆたう」感覚が僕たちを生かしているのかもしれない。

自分も含めて、人間というものを観察していると、それぞれは、それぞれの何かのために必死に生きているように見える。もちろん、意味を見い出すことはとても困難だけれど…。

業や原罪というアイデアに惹かれることもあるが、それも理由づけに過ぎないとは思う。

 

いずれにせよ、「今日できることをやって、今日を生きる」ということ以上のことはできないのに、人間とはずいぶん愚かにできている。