なぜデザインに興味があるのか

The ultimate object of design is form. Every design problem begins with an effort to achieve fitness between two entities: the form in question and its context.

C.Alexander, “The Theory and Invention of Form”, Architectural Record, vol.137, pp.177-186, 1965

クリストファー・アレグザンダーは初期の論文において、「デザインの究極的な目標は形である(The ultimate object of design is form.)」と表現している。

これについて、『クリストファー・アレグザンダーの思考の軌跡―デザイン行為の意味を問う』という書籍において、長坂一郎は「すべてのデザインに共通するもっとも確実なこと」として、アレグザンダーがこの表現を用いていると考察している。

 

生きていく上でおそらく確からしいのは、「生きていると、”今”は確かにある」ということだと思っている。デザインにおいて、”形”が確実にあるように、生きることにおいては”今”が確実にある

そして、”今”をコンテクストの中でいかにあらしめるかが、生きる上での究極的な問いなのではないかと思っている。

 

この問いには大きく2つの要素が含まれている。”今”と”コンテクスト”である

 

“今”に対しては、きわめて実践的に扱われる必要があると思っている。日々、当たり前に生きている中で、今をどうしていくのかが問題だし、「只今」という禅的な感覚に惹かれるのは、私にとっては、それが理由であるように思う。

ここで言う”今”は、概念としては大きく捉えていて、宇宙の歴史から見ると「地球」という”今”があるし、人類の歴史から見ると「近代」という”今”があるし、禅における”今”はおそらく時間的な広がりを持たない概念として「只今」と表現されている。

 

“コンテクスト”に対しては、様々な視点で理解を深めていく類のものだと思っている。例えば、私が易経に興味を持つのも、惑星科学に興味を持つのも、その根源は”コンテクスト”の構造に興味があるからだと思う。

これがなぜかと問われると、明確に回答はできないが、「“コンテクスト”を完全に把握することも、言語化することもできない」。”コンテクスト”が流動的だからなのかもしれない。いずれにせよ、探究するに足るテーマだと思う。

 

「”コンテクスト”を完全に把握することも、言語化することもできない」という感覚から、”コンテクスト”に適合する”形”をゼロから生み出すことは困難を伴う。そこに実践的であることの意味があり、実践によって”コンテクスト”と”形”の間の「不適合」を発見でき、不適合を排除するという手法で適合を探っていくことができる。手法としては「プロトタイピング」とも呼ばれる。

“コンテクスト”と”形”という構成要素ではなく、それらの結節点(間)に発生する”コミュニケーション”の集合として社会を捉える観方もある。ルーマンなどが提示する社会観がそれに当たる。アラン・クーパーのインターフェースデザイン理論や、ユーザビリティの概念も、「間に発生するもの」に着目したものであるように思う。

 

いずれにせよ、私は存在に興味があり、それは形を有していて、その形はコンテクストとのコミュニケーションによってなんらかの”支配”を受けている。その”支配”について理解し、その形の在り方について理解し、存在への関心を満たしたいのだと思う。

“デザイン”という問題に興味を惹かれるのも、これが理由なのではないかなと思っている。