見えないもの

ラーメンズのコントに「不透明な会話」という作品がある。別に作品の主題とは関係ないのだと思うが、「見えないものは無い」のか、というのは大切な問いなのではないかと思っている。

実際のところ、人間は「見えないものは無い」と思ってしまうことが多いように感じる。

 

作品の中では、「見えないって言ったって、ちょっとは見えるんだよ」という台詞が登場するが、個人的には、「見えないけれど観じているもの」というものは、確かにあると思う。「みえる」の定義にもよるが、心地よさであったり、思いやりであったり、愛というものは、見えないけれど、我々は確かに観じている。

別に「感じている」と韻を踏んでいるわけではなくて、たしかに「みえる」のだという感覚がある。もしかしたら、感覚器官が脳に信号を送るために必要な励起エネルギーは満たしていないが、刺激を総体として身体が受け取っており、全体性としては脳が認識する状態にあるのかもしれない。

 

最近は、心地よさや思いやりを数値的に可視化をしていく取り組みもあって、それ自体はおもしろくて意味があると思う。それで解釈可能なことは多いだろうと思うし、論を進めていければ、なんとなく意味づけを行えるだろうという気もする。

一方で、生きるという行為においては、観じていることを可視化することはナンセンスだとも思う。おそらく、人間には究極的には「見えない」し、しかし、それがあることによって観じること、感じることがあれば、それで十分であるという気もする。