認知的柔軟性

子どもにとって、洋服と、ワンピースと、パジャマは、別のものらしい。考えてみれば、当たり前なのだが、1つ1つの対象を記憶していく際に、それに複数の名前があるという概念は、なかなかに複雑なのだろうと思う。

 

「わんわん」と「いぬ」が同じものであり、「にゃあにゃあ」と「ねこ」が同じものであるというのは、まだ理解が簡単そうで、それは単純に2つの呼び方を持っているというだけである。「ママ」と「おかあさん」を使い分けることは比較的、容易そうに見える。

「みかん」も「バナナ」も、どちらも「くだもの」であるということも、なんだか理解しやすいらしい。

 

「ワンピース」や「パジャマ」が難しいのは、それらが同じ場面では成立しづらいからなのかもしれない。「ワンピース」は幼稚園には着ていけないし、寝るときには「パジャマ」を着なくてはならない。それらは比較的、強い境界を持っていて、だからこそ特別なものとして扱いたいし、扱うことで許容したり、拒否したりするとっかかりになる。

難しくしているのは、その概念自体ではなく、人間が生み出す境界なのだろうと思う。

 

物事を認識する際に、抽象度もしくは具体度を柔軟に扱えることを、「認知的柔軟性が高い」と言うことがある。それが低いと、偏見に囚われやすいような気がする。しかし、「独自の視点」というのは、境界に対する偏見によって成立するのだとも思う。

忘れたり、適当に感じたりできると、認知的柔軟性が高くなるような気がする。強い偏見を持っていると、独自の視点だと言われることもある。

 

ただ、独自の視点には、認知的柔軟性も必要な気がする。特に結論もないのだけれど、柔軟さと頑なさは、止揚するのかなと思ったりする。