若いころは、もっとこう、自分はちゃんとした存在だと思っていた。「ちゃんとした」というのは性質が優れているという意味ではなく、ヒトとしてのカタチというか、「個人」として、明確な境界を持って存在していると考えていた、ということである。

そう思っていたのは、西洋的な教育のせいかもしれないし、幼少期から青年期にかけてアイデンティティが形成されていく過程では、通常そう感じることが多いのかもしれない。

 

とにかく、僕は「僕」であって、誰かではないのだから、他者や世界とは区切られた存在なのだと思っていたし、だからこそ、もっとちゃんとしていないといけない、もっとちゃんとあれるはずだと思っていたように思う。

現実には、僕はあんまりちゃんとしていなくて、存在していて良い理由がわからなくなってしまいがちだったように思う。もちろん、存在していて良い理由なんてものは無いので、自分が自分であるほど、不安を感じやすい。「ちゃんとしている」から不安というのは、なんとなく皮肉だと感じる。

 

生きていると否応なく、いろいろな物事と関わりを持つことになる。そうして、いろいろな物事と関わりながら生きていくと、段々とどこまでが「僕」で、どこからが「僕」でないのかが曖昧になっていく。家族のように身近な人たちであっても「僕」の一部でしかないのと同時に、そういった人たちがいない「僕」がどういう「僕」なのか、僕にはわからない。

僕は何かとの関係において生きていて、「僕」という存在は僕であって、僕ではない。すべてが「僕」だとも言えるし、どれも「僕」ではないとも言える。そして、今の僕は必然的、かつ、偶然的に僕であって、たまたま運に恵まれて、こうして存在している。そういったものに対して、なるべく働きかけていくのも運命だし、流れるままに受け入れていくのも運命だと思う。「生きる」ことに専念するのは難しいけれど、そこに工夫があるのだと思う。