惑星科学

元々、大学の専攻に惑星科学を選ぼうと思ったのは、「僕が生きている」という現象の必然性が、中学生や高校生の自分には、頭で考えてもわからなかったからだった。

自分に生きている価値があるとは思えなかったし、少なくとも、もちろん良い影響もあるのかもしれないけれど、自身の存在による悪い影響があると感じていたので、どうやって生きていいのかの拠り所があった方が良いと感じていたように思う。

真面目な学生では決してなかったので、教えてくださった先生方には少し申し訳ないけれど、惑星科学を多少なりとも勉強して良かったと感じることはいくつかあって、生き方のレベルで尊敬できる先生に出会えたこと、学問や思考の構造みたいなものを理解するきっかけになったこと、地球が別に特別な存在ではないということがなんとなくわかったこと、などかなと思う。

もちろん、宇宙がきわめて広大であるという前提の下だが、地球がそれほど特殊な存在でないことは、存在の必然性というか、蓋然性というか、そういうものを頭で理解する手助けをしてくれる。

 

僕はずっと、「僕が生きているという現象には、必然性がない」ということを問題にしてきたのだが、最近は、「誰かが生きているということは、ある種の必然性の上にしか成立しない」のではないかとも感じる。

僕が死んでいない、という現象がなんらかの必然性の上で成立しているのか、そこにも必然性がないのかは、よくわからないなと思う。「死んでいないことが必然」なら、生きていることの必然性が生じる。死ねないというプログラム、希望を感じるというプログラム、…といったものが、苦楽の狭間に僕たちを生かしているのかもしれない。その不安定性から考えると、生きていることにも、死んでいないことにも、必然性はなく、ある種の「たゆたう」感覚が僕たちを生かしているのかもしれない。

自分も含めて、人間というものを観察していると、それぞれは、それぞれの何かのために必死に生きているように見える。もちろん、意味を見い出すことはとても困難だけれど…。

業や原罪というアイデアに惹かれることもあるが、それも理由づけに過ぎないとは思う。

 

いずれにせよ、「今日できることをやって、今日を生きる」ということ以上のことはできないのに、人間とはずいぶん愚かにできている。