変換器

人は嘘をつく。意識的に、というより、驕りや懼れといった情動により、脳が無意識に処理しているケースも多いと思う。自己の人格を維持するために、必要な反応だろう。「嘘」とは実は自身の中には無くて、他人の中に見出してしまうものなのかもしれない。

同時に、人は他人の言葉を正しく捉えることはできない。こちらも、驕りや懼れといった情動によって、また、自身の思考空間の狭隘さによって、「きっとこうだろう」という認知を、「相手はこう言っているのだ」と認識してしまう。

 

ある友人は、「人と人の対話の間には、変換器がある」と言う。とても優秀な友人で、100人くらいの会社で経営と執行に取り組んでいる彼らしい、実践的な理解だと思う。

変換器のせいで、言葉はうまく伝わらない。変換器が存在する前提で情報を伝えるためには、相手との信頼係数が高い状態が必要だが、信頼係数は有限で、それを不用意に消費して無理やり情報を伝えると、次回の情報伝達は困難になる、と。世の中で言われる「心理的安全」みたいな概念も近い何かを表現しているのかもしれない。

 

まったく悪い意味ではなく、僕は人は嘘をついてしまう存在だと思っている。加えて、どんなに正確に言葉を紡いでくれたとしても、それを理解する能力は少なくとも僕にはないので、仕方がない。実務上は別に嘘でもなんでもよくて、相手と取り組むと決めた物事が進むことが大切だと思う。要はどれくらいの嘘なのか、どれくらいの隠し事があるのかを現実に問題が起こらない程度に見定められれば良い。

同じ構造で僕も嘘をついているはずなのだけれど、自分がなぜ、どのように嘘をついているのか、ついてしまうのか。そのあたりはもう少し知りたいなと思う。