人間は不完全だ、と言われることがある。生きているだけで、完全である、という人もいる。本当は、そんなことはどうでもよいのかもしれないが、少なくとも、そういう議論はある。
惑星や宇宙の勉強をしていた頃、あるいは、量子力学や統計力学を少し学び始めた頃に、見ることや知ることの難しさという概念を知った。
惑星科学には「比較惑星学」という分野がある。地球と他の惑星を比較することで、「地球とは何か」「惑星とは何か」という問いに迫ろうとするアプローチをそう呼んでいる。地球は地球の外から観測できるが、宇宙は宇宙の外から観測できない感じがする。そのため、我々が宇宙について知ることができる範囲の割合は、惑星のそれに比べると小さくなるだろうと思う。
量子力学には有名な「不確定性原理」というものがある。量子力学が扱う小さなスケールでは、物質は粒子と波動の双方の性質を持つ。その物質波の分布の広がりから、観測値には分散が存在する。量子力学はほんの少ししか学んでいないため、定式化には詳しくないが、要するに、完全に定めることができないものが系の性質として存在する。
不確定性原理と混同されることも多いが、「観察者効果(もしくは観測者効果)」と呼ばれるものもある。観測という行為自体が観測している系に影響を与えてしまうという考え方をこう呼ぶ。物理学的な定式化とは異なるが、日常的な観測、というか生活においても、見ているという行為に意図が含まれている以上、正確な観測は不可能だと思う。アンケートを取るという行為が、アンケート結果に影響を与えるというのも似ている。
人間の認知にはおそらく限界があるし、少なくとも僕は、「人間が完全である状態」というものを知らない。完全であるという状態がわからない以上、人間が完全であるのか、不完全であるのか、という問いについて答えることは不可能で、もしかしたら、不完全だと感じる現在の自分が、完全なのかもしれないし、やっぱり不完全なのかもしれない。
惑星科学のアプローチで考えると、「比較人間学」ということは可能である。世の中で「人間学」と呼ばれているもののほとんどは、比較と洞察によって成立しているのではないかと思う。人間は生きることで、人間を知るための比較対象を1つ残すことができる。そういうところには、生きている意味があるようにも感じる。