知的とは何か

「あなたは人間ですか?」と訊かれたとする。理由は人それぞれだと思うが、多くの人は「おそらくはそう」だと思う。

では、「あなたは人間的ですか?」と訊かれたら、どうだろうか。少し難しい気がするが、なんとなく自身の「人間的な度合い」について、それぞれに思うところがあるだろう。

 

さらに、「あなたは知的ですか?」と訊かれたら、どう答えるだろうか。例えば、3歳の幼児が1桁の足し算ができれば、「知的な子ども」だと思う。しかし、15歳の少年が1桁の足し算ができても、あまり知的だとは思わないだろう。

「人間」にせよ、「人間的」にせよ、「知的」にせよ、基準と広がりを持った概念で、「生物学的分類に基づけば人間」であったり、「あいつに比べれば人間的」であったり、「3歳児にしては知的」であったりする。

 

「知的な度合い」について、検証可能な方法を導入したのはアラン・チューリングだと思う。

とりあえず「人間らしい知的な度合い」という問題に限定すると、受け応えにおいて、人間と区別ができなければ、そのやりとりの範囲内においては十分に知的である、と考える。これが基本的なチューリングテストの構造で、例えば1桁の足し算においては、人間に問いかけても、コンピュータに問いかけても、答えは同じで区別がつかない。その場合、コンピュータは1桁の足し算において、十分に人間らしく知的である。

 

次は、3桁×3桁の掛け算を問いかけることを考えてみる。おそらく、コンピュータの方が解答は早いだろう。もしかしたら、人間は間違えるかもしれないが、コンピュータは間違えない。

優れているのがコンピュータで、エラーを起こすのが人間という考察によって、人間とコンピュータは区別可能となる。そうすると、素早く正確に計算できることは、人間らしい知的さではないことになる。

 

繰り返しになるが、「知的」には基準と広がりがあり、人間らしい知的さとはかなり曖昧な概念である。一方、コンピュータの知的さは、演算を間違えることはないとすれば、とりあえずは処理速度で定義されることになる。

基準があまりにも異なるため、コンピュータと人間で知的さを比べることは、あまり意味がないことだと思う。コンピュータが演算において人間より高い正確性と処理速度を持つだろうことは、コンピュータの理論が構築された時点で自明なのだから、今更そのような議論をしても仕方がないだろう。

 

デジタル化、情報化という社会の変化に対して、「知的」および知的さの活用という問題を少し扱ってみたい。その出発点として、「人間らしい知的さ」と「コンピュータらしい知的さ」をとりあえず定義するところから始めようかと思う。