人間らしさ、機械らしさ

知的さには、基準と広がりがある。言い換えると「らしさ」があるということだと思う。子どもらしさ、大人らしさ、コンサルタントらしさ、クリエイターらしさ、日本人らしさ、イギリス人らしさ…。

子どもらしい大人がいたり、コンサルタントらしいクリエイターがいたりもする。どのような基準も、どのような広がりも特性に過ぎず、良い悪いはない。コンサルタントよりコンサルタントらしいクリエイターがいても問題ないし、だからこそ提供できる価値もあるかもしれない。

 

「らしさ」を理解することで、他者との取り組みの生産性を高めることができると思う。

生産性と取り組みの目的の関係、および、生産性の定義についてはここでは議論の外に置いておくが、「理解は目的ではない」という点はとても重要である。目的に対して十分な生産性が得られれば、それは十分な理解と言えるし、理解度の高低に関する議論は認識に依存するところも大きいため、(実務上は)意味を失いがちである。

 

私は、自分であろうと他者であろうと、人間であろうと機械であろうと、問題解決においては同様に道具であると思っている。持続可能性が保たれる範囲内であれば、その扱いに違いはないだろうと思う。

人間と機械で何かに取り組むと考える場合、重要になるのは特性の違いである。ざっくり言うと、データ処理においては人間は適当に考えるのが得意、機械は網羅するのが得意であろう。一方で、具現化においては人間は(データ処理が適当であるがゆえ)対象の規模に対して比較的に精緻で、機械は(膨大なデータ処理を行うがゆえ)粗雑になってしまう。

 

掃除をすることを考えてみると、対象の規模に対して処理しているデータは機械の方が多いだろう。ルンバは壁の位置、部屋の広さ、障害物の形状、埃の過密などのデータをインプットして、掃除をする。吸い込む力、移動速度、ある地点を通過する回数などが制御されている。

人間も同様の処理は行なっているが、データという観点では概ね適当に処理をしている。だいたいこのあたりは綺麗になったなとか、この裏にも埃が溜まっているかもしれないな、といった具合に。しかし、髪の毛一本に気付くのは人間だったりする。

 

なんとなく、人間より機械の方がミスをしないというような印象がある。しかし、データ処理においてはそうかもしれないが、具現化においては機械の方が現時点ではまだミスが多い。

それは私たちも感覚としては理解していて、例えば同居人が家の掃除をしてくれた時と、ルンバが家の掃除をしてくれた時とでは、ルンバに対しての方が完璧さに対する期待値が低いように思う。まあ、ルンバだし、このくらいのゴミは残るよな、みたいな感じに。

 

問題解決においては、人間も機械も大して変わらないのだから、機械もミスして当然である。むしろ、具現化においては機械は人間よりミスをしやすい。Amazon Goの返品ポリシーを見れば、Amazonがそれを正しく理解していることがわかるだろう。

まずは機械に対して寛容になることが、現代の問題解決においては重要ではないかと思う。