コミュニケーション

コミュニケーションが目的なのか、手段なのかというと、僕は「手段」だと思っている。理解についても同様で、理解はそれ自体が目的になることは稀で、ほとんどの場合は手段だと思う。

単純に、コミュニケーションや理解を目的にしてしまうと際限がなくて疲れてしまうので、あまりそれらを目的にしたくないという不精な気持ちもある。

 

昔からそんな風に思っていたわけではなく、きっかけはチャットツールだったように思う。僕はSNSはあまり利用しないので、もしSNSを利用していたら、もう少し早くにそういう考えに至っていたのかもしれない。

 

コミュニケーションにおいては投下される時間がとても重要だと思う。通常、時間と品質はほぼ比例する。しばしば「コミュニケーションの質」ということが言われるが、コミュニケーションの天才を除いて、一定の量によってしか、品質を担保し続けることはできないと感じる。投下される時間はコミュニケーションを議論する上で支配的な変数の1つだと思う。

もう1つの重要変数は距離である。距離は、コミュニケーションから得られる情報量や求められる即時性などと相関がある。もちろん幅はあるが、対面での対話は目の前にいるので、すぐに応えてくれるという期待がある。手紙やメールは距離が離れており、メッセージを発信した際に相手が必ずしもいると期待しないから、求められる即時性が低い。

 

「投下される時間」と「距離」を軸に取ると、対面での対話は「時間をかけて、近くで行う」コミュニケーション、手紙やメールは「時間をかけて、遠くで行う」コミュニケーションだと思う。「時間」には相手を想っている時間も含まれるので、手紙というのは濃いコミュニケーションになりやすい。

では、チャットツールはどうかというと、僕は「時間をかけずに、(情報的には)近くで行う」ものと思い込んでいる時期があった。時間をかけないので質は担保しづらい。距離が近いので即時性が求められるが、物理的な距離ではないので得られる情報が限定的で、それがさらに質を悪化させてしまう。そんなわけで、どのように活用して良いのかわからず、混乱してしまっていた。

 

個人的には、コミュニケーションはやはり時間をかけずには質が担保されないので、「時間をかけて、遠くで行う」ことがチャットであっても基本だと思う。一呼吸くらい置いて、落ち着いて考えた方が良い。ただし、ちょっとしたやりとりにおいては「時間をかけずに済ますこともできる」。

チャットツールは「時間をかけて、遠くで行う」手紙的なコミュニケーションと、「時間をかけずに、近くで行う」チャット独特のコミュニケーションの双方の性質をまとっていて、その双方を同じプラットフォーム上で利用できるところに良さがあると思う。物理的な距離による親密さは生じないが、物理制約を超えて時間が投下されることによる親密さが生じ得るように思う。

 

チャットツールでは「どのメッセージに返信するか」、逆に言うと、「どのメッセージは無視するか」を決めるために時間が必要となる。「無視するか」という思考は、従来のコミュニケーションには(明示的には)あまり無いため、この点は理解するのに時間がかかったように思う。あらためて気付いてみると、この思考はコミュニケーションにおいてかなり本質的な問題を蔵していると個人的には感じる。

消費する時間配分の違いによって、メッセージの内容にかける時間が限られてしまうため、意識しないと内容について思考する時間が短くなりがちである。その点は注意が必要だと思う。いずれにせよ、とにかく大事なことは、返信する人にしか返信しないことだと思う。

 

考察の内容自体はどうでも良いのだが、新たな方式が発見され、それぞれの性質が異なると感じたことによって、僕はコミュニケーションを手段として捉えるようになったように思う。

そして、コミュニケーションを手段として捉えるようになったことで、そこから得られる理解についても、適切な度合いで良いのだと思うようになったように思う。