事業そのもの、発見そのものはもちろん尊いのだが、それから何かを学ぼうと思った時には、その事業や発見を生んだ精神を知りたいと思う。
それを為したい、それを知りたい。そこに想いが至る、そこに気付くというのは、ある種の必然によって生じるものだと思う。
しばしば、まったく交流のない複数の場所で、同時代に同様の偉大な事業が生まれたり、発見がなされたりすることがある。それは、環境であったり、時代であったりがそれを発見することを求めていたり、それを直観する準備を整えていたりするのだと思う。
それと同時に、それを為す人、それを知る人の中にも、それと出会うための準備と必然があると思う。そういった事業や発見は、その時代には受け入れられないことも多いが、偉大な人物というのは自らの事業心や探究心によって、屈することなく為せる人だろう。
僕は、「気付くための準備」「気付くための精神」というものはとても大切だと思う。人間が何かを見るということは想像以上に難しくて、ほとんどのケースで、人はほとんど何も見ることができない。
気付く人は、何に気付くのか。気付く人は、どうして気付くのか。それを知ったり、想ったりすることに、事業や発見、人物の歴史を学ぶ意味があるように思う。