アンリ・ベルグソンの『時間観念の歴史――コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』の中に、「子どもが大人になる」という命題が取り上げられている箇所がある。この命題は、現実においては極めて当然に見える。確かに、子どもは大人になるように思う。
しかし、精確な論理という点では不可能な命題となる。論理は「子ども」を精確に、完璧に完成された子どもとして定義する。同様に「大人」も完璧に完成された大人である。論理がまったく譲歩せず、完成し静止した「子ども」「大人」という実在から出発すると、論理的な移行は不可能なわけだ。
「子どもは大人になるものである」とすれば、「子ども」は完成された実在ではなく、「決してすっかり全部子どもということはない子ども」の「決してすっかり全部大人ということはない大人」への生成変化が絶えず起こっているということになる。
そんなことは当たり前じゃないか、と思うかもしれない。しかし、人間というのは思った以上に静止した概念に縛られている。
葉っぱの絵を描く際に、「緑色で描いてはいけない」という話がある。茶色であったり、黄色であったり、赤色であったりで描き始めなさい、と。
落葉樹のような植物における「緑色の葉っぱが茶色になる」という命題について、現実として大きな違和感を抱く人はおそらく少ないのではないかと思う。葉っぱは枯れると茶色になって、落ち葉として樹々から落ちていく。つまり、「緑色の葉っぱ」は絶えず「茶色の葉っぱ」へと生成変化しており、その内部に茶色がないとおかしいというわけである。だから、「よく見て描きなさい」と。
デザイン行為は、対象を静止させようとする傾向がある。止まっていないと、要素を扱いづらいし、デザインを完成させることが難しい。しかし、本来は静止していないものを静止させようとしたり、デザインを完成させようとすることは、かなり矛盾を含んでいる。
茶道にはまったく詳しくないが、千利休は日常使いの茶碗を好んだとされる。焼かれた姿よりも、使われる姿の中に美しさを見い出したということではないだろうかと感じる。生活という生成変化を、デザインに取り入れようとしているように感じる。
いわゆるアートにしても、戦略であったり、サービスであったりのデザインにしても、ある瞬間に捉えたものから出発すると思う。しかし、捉えた瞬間は次の瞬間には「今」ではない。
普遍的なものに魅力を感じるのも、世界や現象が絶えず生成変化していることを感じているからだと思う。普遍性と美しさの関係はそれぞれの好みだと思うが、少なくとも生成変化とデザインが密接に関係したものであることは真実に近いのではないかと思う。