分別

幼いころというのは、分別がない。自分と他者の違いが曖昧で、世界は混沌としていて、どこからどこまでかはわからないけれど、そんな融合した世界をそのまま受け止めて、嬉しくなったり、楽しくなったり、悲しくなったり、辛くなったりする。とても美しいことだと思う。

それがだんだんと、彼我の違いを意識するようになってくる。そうなると、いろいろなものがはっきりしてくる。はっきりしてくると、思考は分析的になる。こちらはあちらでない、こちらとあちらは違う、ということを考える。なんでも、はっきりしていないといけないような気持ちになって、神経質に考えるようになる。その危うさにもまた、張り詰めた美しさがあると思う。

 

自分がそれくらいの年齢のころにも、似たようなことを考えたように思うけれど、久し振りに中学生と話して、「幸せについて考えることには、不幸せからの逃避という意味がある」というのを聞かせてもらった。幸せは、少なくとも不幸せではない、ということだと思う。

僕自身は「幸せがあるから、不幸せがある」と10代の頃は強く考えていて、「不幸せにならないために、幸せになってはいけない」と思っていた。主張は少し違うかもしれないけれど、分別的で、分析的という点では、中学生の彼の話と似ていると思う。なんとなく融合して、混沌としていたものに対して、それがなにであるかを少しでもわかりたいという気持ちがそうさせるのだと思う。

 

そういう分別を経て初めて、物事は混沌としているという分別が少しずつ身に染みてくるように思う。混沌としたものを混沌としたままに受け入れて、そうでありながらその中に秩序、つまり美しさを見つけていく。そういう分別がある人間になりたいし、少しでもそれが身に染みたのであれば、それをなるべく忘れずに、失わずに生きていきたいものだと思う。