何かを幸せや不幸せと結びつける思考は、僕はなるべく避けたいと思う。もちろん、個々人が何か(例えば、自分の存在)の拠りどころとして、自身の幸せと何かを結びつけて、尊んだり感謝したりするという行為はそれぞれの自由だと思うけれど、何かと幸せの関係をさも一般論のように他人にも受け入れさせようとするのは、乱暴になりやすい。そういう乱暴な議論など抜きにしても、生きるのは十分に興味深いし、楽しめるものだと思いたいと僕は思っている。
また、自身の中の話であったとしても、特定の何かに依存することは好ましくないと僕は感じてしまう。「何かが無ければ僕ではない」ということはないし、「何かが在るから僕である」ということもない。何かと自分を結びつけてしまうと、何かが無くなれば自分も無くなるということになってしまう。それは少し危ういように思う。
例えば、金銭的な豊かさと幸せを結びつけようとする人がいる。同時に、金銭的な貧しさと幸せを結びつけようとする人もいる。そうすると、金銭的な豊かさは幸せに繋がっていると同時に、金銭的な貧しさは幸せに繋がっているということになる。
もしくはどちらとも繋がっていなくて、少なくともある程度は独立しているから、どちらの事象とも同時に成り立つ可能性もある。繋がっているのか、繋がっていないのかは分からず、どちらともセットで語れるのであれば、結局はポジショントークのようになってしまう。金銭的な豊かさや貧しさと幸せや不幸を結びつけようとすること自体のどこかに無理があって、その議論をしている間は、安心を得づらいのではないかと思う。
それは金銭に限らず、地位でも名声でも評判でも、友達や恋人や家族でも、スキルや能力や資格でも、境遇や容姿でも、趣味や日々の過ごし方でも、同じような議論が成り立つように思う。
結局のところ、いろいろなことはどちらでも良い。どちらでなければならない、ということはない。そうであるにも関わらず生きているというところに多少の難しさを感じてしまうのであれば、それは僕の至らなさ、工夫の足りなさなのだろうと思う。自在というのは、そういうところにあるのではないかと思っている。探究するとは、つまるところは探究しないところにあるように思う。