友人から、最近の塾の中には、勉強はコンピュータが指導するものであり、少なくともアルバイト社員は、勉強について口出ししてはいけないという仕組みを持つものがあるという話を聞いた。
タブレットに向き合って問題を解き、回答に応じて、次に取り組む問題を人工知能が提案する。機械学習で、テストの点数を上げるために最適な問題の提案方法の精度を高めていく。アルバイト社員がすることは、集中が切れたり、居眠りをしたりしてしまった生徒たちに声をかけることだけだそうだ。
間違えない能力を高めるために、間違えることがないコンピュータの方が教師として適切というのは、道理があるように感じる。コンピュータが間違えるのは、アルゴリズム自体の問題であって、特定のアルゴリズム上で、そのアルゴリズムにない処理をする、つまり間違えるということは、基本的には起きない。
そこは、ほとんど何も見ておらず、思い込みの中で勘違いを繰り返しながら問題に向き合っていく人間の脳とは、異なる点だと思う。人間にとって、思ったように考えることは想像以上に困難である。
コンピュータが適切に間違え始めると、それとどう向き合ってよいのかという問題は、非常に複雑になると思う。「適切に」というのがまた複雑で、アルゴリズム上にない間違いを、対話している人間にとって適切と感じる範囲でするということになると、あまり想像しづらい。
そもそも、間違えるコンピュータが必要なのかと考えると、それは少なくとも現時点でコンピュータの価値と想定されているものとずれているようにも感じる。
逆にいうと、間違えたり、勘違いしたりするところに、人間の思考・試行の独自性があると思う。人間は、きわめてシンプルなゲーム(通常の意味でのゲームはもちろん、テストで良い点数を取ったり、企業が利益を追求したりといった活動も含む)を除けば、目的変数すら容易に間違えてしまう。
きわめてシンプルなゲームに取り組んでいても、間違えることがあるし、揺らいでしまうということもある。
だから素晴らしいということではないが、なにかしらの独自性であることは確かなように感じる。