僕は人間は孤独だと思っているし、「確かなもの」なんてものは無いと思っている。それは普通のことで、良いことでも、悪いことでも、喜ぶべきことでも、悲しむべきことでもなく、ただ、そういうものだと思っている。
ハンナ・アレントは『全体主義の起源』の後書きで、孤独を「自分自身と共に在り、語り合う行為」、寂しさを「際限なく他人を求める行為」とし、寂しさを利用したのが全体主義であると述べている。
全体主義を機能させるには、政治的な思想体系と暴力・脅迫(イデオロギーとテロル)が必要となる。不安に対して、確かなものを差し伸べる。そうすると、人は個性を失う。自分自身と語り合い、自分自身と在ることを放棄してしまう。
寂しさに囚われた人が何を求めているのかはわからないが、少なくとも、自分を求めてはいない。おそらくは、「確かなもの」を求めている。自分は「確かなもの」ではないので、求める対象にならない。
「確かなもの」は人を惑わせる、と僕は思っているのだと思う。鶏と卵だけれど、「確かなもの」を求める心が、不安を生じさせる。不安に対して、「確かなもの」を求めているうちに、自分とはものすごく遠くに行ってしまうように思う。
人間は、自分としか生きられない。それなのに、自分とは遠いところに行ってしまう。自分とは何か、を確かなものにしようとすればするほど、「全体」という仕組まれたイデオロギーに支配された存在になってしまう。
別に、それは悪いことではないけれど、少し哀しいことだと僕は思っている。