不安

不安な人間というのは、「論理」に対して論理的でなかったり、「科学」に対して科学的でなかったりする。もっと言うと、「知識」に対して知識的でなかったりすると思う。

僕自身、論理、科学、知識に頼って振る舞っている時はたいてい不安な時だろうと思う。

 

それは僕が人間だから、なのかもしれないが、論理にも科学にも知識にも限界がある。突き詰めていくと、論理では測れない領域、科学では測れない領域、知識では測れない領域が見えてくる。それはとても論理的で、科学的で、知識的な現象である。

しかし、突然そういったものにぶつかると強い不安に襲われる。不安は人を論理に、科学に、知識に走らせる。それらがあまりに簡単だから、理解できる世界に飛び込もうとする。そして、そこで世界を形成し、出てこられなくなる。「安心」という不安を抱えてしまうと、対話はほとんど不可能になってしまう。

 

人が生きていると、意図を持ってしまう。少なくとも、意図に巻き込まれてしまう。意図は、境界の「適切さ」を設定し、人を「正しさ」で縛ろうとする。「適切さ」へ最適化することは、単に「正しさ」という狂気を正当化しているのだと思うのだけれど、さも正しいこととされてしまう。

もちろん、それは正しくて、それが「人が活動する」ということなのだと思う。だから、「論理」という扉を開けて、その部屋に入ることは必要である。ただ、いつでもその扉から出られることは大切なのだと僕は思っている。多くの場合、扉を出入りしているということは、扉の外からも、扉の内からも奇異に見えるし、あまり正しいことではないのだと思うが、それは僕にとっては重要なことなのだと思う。

 

晋代の漢詩に「心を安んじて恬蕩、志を浮雲に棲ましむ」という。とても良い一節だなと感じる。

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