在り方としての技術

現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発[Herausfordern]である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出されうるようなものを引き渡せという要求[Ansinnen(無理難題)]を自然にせまる。

(中略)いたる所で求められている[bestellt sein]のは、即座に使えるように[auf der Stelle]手許にあること[zur Stelle stehen]、しかもそれ自体さらなる用立て[Bestellen]のために用立てられうるようにあることである。

(中略)われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける — 集-立[Ge-stell]と。

(マルティン・ハイデッガー 『技術への問い』(関口浩訳)より抜粋)

ハイデッガーの技術論は、技術の善悪に関する議論を一切せず、技術の存在の意味を問うている。

技術は、「どう便利であるか」と存在を理解しようとする在り方であるという。あらゆる存在の中に「便利さ」を見出そうとする理解の様式、そのような在り方が技術であるという。

 

技術にもし悪があるのであれば、その悪をどう便利にするか、それをいかに効率的に確実に推し進めるのか、も技術の意味になる。技術の善も、技術の悪も、技術的に理解され、技術的に改変(改善、もしくは改悪)される。

そこに技術への問いが立ち現れてくる、ということではないかと思う。

 

技術は再帰的に技術を求める。それは、近代が再帰的に近代化するという考え方と似ているように思う。そこに技術の秘密であったり、近代の秘密があるように思う。

 

効率的に技術を使うことはもちろん、技術から離れることも技術的に行われてしまうのだとすれば、技術的でない在り方とは何だろうかと思う。

その場所に人が立ち戻れるかは別にして、なんとなく、全体をそのままぐわしと掴むような、そんな感覚なのかなと思う。

 

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マルティン ハイデッガー
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