都合の良さ

墨子』の貴義第四十七、十五節に、衛という国に仕官させた人が帰ってきてしまったというエピソードがある。話を聞くと、「行ってみると話が違った。はっきりしなくて、確かでない」、「千金(原文では「千盆」。盆は量の単位で一盆は二鬴、一鬴は六斗四升という)を与えると言っていたが、その半分しか与えられなかった。確かでないから、帰ってきた」と言う。

それに対して、墨子は「あなたはもし、千金以上を与えられたら帰ってきましたか?」と質問する。それには「いいえ。帰ってこなかったでしょう」と答える。もしそうだとすれば、「あなたが帰ってきたのは、確かでなかったからではない。報酬が少なかったからです」と墨子が諭すという話である。

 

人間は、自分が正しいと思っていると、自分の都合で物事を解釈してしまう。都合の良い時は受け入れるが、都合の悪い時は相手を批判する。そうなると、義は失われてしまう。

義というか、正しさというか、そういうものを以て生きるというのは、そんなに簡単ではない。無私でなくてはいけない、というのはあまりに教訓めいているし、「無私」という表現自体が「私」を強く意識しているから出てくる言葉だろうと思う。無私はそれこそ、難しいと思う。

 

僕も含めて、ほとんどの人間は「私」を強く持っている。多少なりとも他者と対話したり、世界や現実に向き合って思考したりするための方法は、自分がどれだけ「都合」で生きているのか、自分の身勝手な「都合」がどういうものなのかを少しでも自覚することなのかなと思う。

良くも悪くも、人間はご都合主義で、都合良く生きている。そうとしか生きられないし、ある意味では、そうであるから生きていられるとも思う。