強さ、優しさ

現代は、あらゆるものは相対的に語られることから免れない。「宗教的」という言葉は、ある教義がその宗教内において絶対的に扱われがちであるがゆえに、偏執的という意味として用いられる。

議論であったり、思想であったりにおいては正しさを議論することは難しいし、宗教における教義の正しさというのは二次的なもので、心が清らかで、性格が誠実で、行いに偽りがない、という人格や生活に尊敬が抱かれる、ということが本来的で一次的な信仰・宗教だと思う。どんなに言っていることが立派でも、嫌われて、排斥される人はいる。

 

強さ、というのも似ていて、(もちろん特性は議論できるが)どの武道・武術、流派が強いという議論を超えて、強い人は強いと思う。合気道の稽古を集中的にやっていた時期に、「合気道は強いか?」という質問をされることがあったが、強い人は強くて、武芸十八般ではないけれど、様々な研究・工夫を行っている。

理想論ではあるが、道であったり、術であったりに対して真摯で、真面目に取り組むということが強いということに繋がっていくのが美しいと思う。

 

強くて、優しいというのは、ただそれ自体に尊さがあると思う。どう強いのか、どう優しいのかを考えることは、それを確かなものにするために必要な思考・試行ではあるけれど、尊さはただ恐れずに取り組み、強くて、優しいということに宿ると思う。

人間というのは不純だし、いろいろなことが怖くて、思い通りには動けない。なるべく純粋に今を感じることをこころがけていくしかないのかなと思うし、少しでもそうありたいなと願う。