社会というのか、集団というのか、そういうもので生きる以上、それを成立させる秩序が必要だと思う。『CODE』の中で著者のローレンス・レッシグは、以下のように記している。
ふつうは、競合する価値観集合を記述して、その中でどういう選択を行うかを記述すると、その選択は「政治的」と呼ばれる。それは世界がどのように秩序化されて、どの価値観が優先されるかという選択だ。
(ローレンス・レッシグ 『CODE VERSION2.0』(日本語)より抜粋)
集団においては、価値観の選択をもたらす活動が権力と結びつきやすい。と言うよりも、価値観の選択は権力そのものに近い。政治はもっとも顕著なもので、経済もそうだと思う。
価値観は一義に決められるというよりは、均衡点・平衡点が決められるという方が正確だと思う。権力が常に、すべての場所において発揮されることはないのだから、権力を持つ者が見通すべきは均衡になる。逆に言うと、現在の均衡から新たな均衡への移行を為せることが政治であれ、経済であれ、権力者に求められる才覚になるだろうと思う。
一方で、個人の人格は自由で、秩序に対して配慮は必要だが、(一定の範囲内であれば)どのような選択に対しても安全であった方が好ましい世界であるように感じる。それはつまり、あまりに均質的で、かつ、それが強制的だと生きづらいということかもしれない。
世界はミクロで見ると非平衡状態で、マクロで見ると平衡状態だと思う。非平衡の擾乱は常に存在するが、その擾乱が拡大することでマクロの平衡状態が移行するということかもしれない。