良い認識、について

問題解決に取り組む際には、まず最初に知覚すること、そして認識することが必要だろう。情報が無いことには、問題にどう取り組んでよいのかを考えることができない。

 

「認識」というのはある程度、哲学的な用語だが、ここでは「私が対象を把握すること」としたい。「認」という字が入っているので、知識に比べると、よりプロセスを意識した言葉だと思う。哲学的には、そのプロセスには主観であったり、精神の作用が必要とされる。

情報工学においては、自然情報処理の1つとして「パターン認識」というものがある。情報の中にパターンを見出して、音声や画像を選別し、意味を取り出す。「音声の自動書き起こし」や「写真を見て、猫だと思う」といったことだが、言語解析であれば対象としている言語や頻出の用語、画像解析であれば教師データと呼ばれるインプットが高精度な認識のためには必要だろう。それもある意味で主観・精神の作用である。

 

ものすごく単純化すると、私たちは常に「ルビンの壺」を見ていると思う。人によって見えるものは異なるし、同じ人であっても気分によって壺に見えたり、顔に見えたりする。そして、それから逃れることは基本的には不可能だと思う。

大切なことは、「少なくとも今、私にはこう見えている」ということを素直に認識すること。同時に、様々な認識をなるべくフラットに意識の上に並べることだと思う。そこに「正しさ」の意識を持ち込むと、途端に事態は複雑になるか、もしくは声の大きい人が主張を押し通すしかなくなる。

 

認識をフラットに意識の上に並べられるかどうかは、気分や体調にも依存する。そもそも「フラットかどうか」は相対的なものなので、認識を繰り返すことでどういう見え方があり得るのか、何故そのような見え方をするのかということが初めてわかる。

どういった認識に対しても、ある意味で保留しておくことで、認識を深めることができる。認識しないことで初めて、認識が可能になる。認識はするものではなくて、し続けるものであるという表現が適切かもしれない。

 

認識は問題解決の出発点だが、認識は問題解決ではない、という点には注意が必要だと思う。言葉は人を縛るので、認識については言葉にしない方が良いと思う。

認識を言葉にすると、意識が問題解決へと移行してしまう。認識を言葉にするのは、認識のプロセスが一定は完了し、意志として問題解決に取り組むタイミングになると思う。