「ニューヨークの摩天楼は小さすぎる。十分な大きさではない(とはじめて見たル・コルビュジエ氏は語る)。大きく、そしてもっと間をあけなければならない」。(『伽藍が白かったとき』より)
(磯崎新 「ル・コルビュジエに関する七つの断章」より抜粋)
東京、ニューヨーク、長安、平安京…。いずれにせよ、都市を計画するというのは興味深い仕事だと思う。
これは多分に感覚的にしか理解していないのだが、都市に限らず、それぞれの場所には在り方に対する思想が必要だと思う。また、それぞれの場所には、それぞれの場所のテーマと「得るべきもの」があると思う。
磯崎新の「ル・コルビュジエの仕事」の中で、「うっとおしく、とざされたヨーロッパの都市」が獲得すべき目標としたものが緑と太陽と空間であったのに対して、インドのシャンディガール(ル・コルビュジエの都市計画として有名、チャンディーガルとも)では事態はまったく逆に、緑と太陽と空間は制禦されるべきものであったと考察されている。
「在り方」については、ル・コルビュジエは有機体、生命体をイメージしているように思う。モデュロールとは、黄金比と人間の寸法が支配するフラクタルだと感じるし、都市機能を脳中枢、脊椎、循環系統などに分類して考える方法も興味深い。
ダイアグラム的な構成は長安や平安京に通じるところもある。人間は、いわば都市を巡る血液のようなものに当たるのだろう。
東京に限らないのかもしれないが、大きな都市は(良い悪いではなく)空を切り刻んでいるように思う。ニューヨークの摩天楼も、そういう側面があるのかもしれない。
高層ビルや高層マンションは、職場の集合、住居の集合というテーマに応えるために開発された手法だろう。集合した時に、職場や住居としての独立性や有機性をどう保つか。
本当かどうかは知らないが、ニューヨークの摩天楼は、他の都市に比べて細いらしい。それは、「管理職には個室を準備する」「個室には窓が必要である」という、働き方の要請によるものだという話を聞いたことがある。
体積が寸法に対して三乗で大きくなるのに対して、表面積は寸法に対して二乗になるから、細いビルをたくさん作る方が、その都市が持つ「窓のある個室」が多くなるという。本当のような、嘘のような話だと思うが、一理ある。そうだとすれば、確かに「ニューヨークの摩天楼は小さすぎる」のだろう。
都市設計(デザイン)という言葉もあるが、都市計画(プラン)の方が、なんとなくしっくり来る。都市は単体の構造物より寿命が長いこともあり、プランが必要だろうと思う。
古地図を眺めるという趣味が世の中にはあるが、そこには自然の計画があったりするのだろう。なかなか知的に面白い趣味なんだろうなと思ったりする。