麻痺と調和

人間に限らず、あらゆる動物がそうなのかもしれないが、少なくとも人間は麻痺していないと、とても生きていられないと思う。

麻痺というより、「知覚や感覚、感情の遮断」というくらいの方が正しいかもしれない。そもそも脳は、受信する情報のすべてを処理したりはしないのだから、もともと麻痺しているとも言える。

 

『論語』にある「矩を超えず」というのは、言うまでもなく非常に難しいことである。適切に受信し、適切に発信するということが、矩を超えないということだと思う。

「適切」というのがまた難しく、社会によって異なる。感受性が強い、というのは、受信する力そのものの話をしているケースもあるとは思うが、多くは受信する信号のピークのズレによって生じる問題のことを指している気がする。

 

受発信はバランスが重要で、その瞬間に所属している社会とのズレの問題以上に、媒体する装置である人間が壊れないようにするのが大切だと思う。

人間というのは変化するのは苦手だが、壊れる時は思ったより簡単に壊れてしまうことがある。壊れてしまったら、元も子もないように思う。

 

自身にも、社会にも、自然にも、調和というものがあると思う。不協和音にならない程度に、それぞれのハーモニーというものを感じることは大切だろう。

一方で、調和しない旋律は調和しないのだから、そういうものだと割り切って、距離を取ることも重要だと思う。そういう場合は、距離を取ることが調和的なのだと思う。