都市、混沌、技術とデザイン

Laymen like to charge sometimes that these designers have sacrificed function for the sake of clarity, because they are out of touch with the practical details of the housewife’s world, and preoccupied with their own interests. This is a mis­leading charge.

[…]if designers do not aim principally at clear organization, but do try to consider all the requirements equally, we find a kind of anomaly at the other extreme.

C.Alexander, “Notes on the synthesis of form”, 1964

デザインの一側面を問題解決とした時に、しばしば問題になるのはユーザの要求である。少なくとも現代の都市におけるユーザの要求は混沌としている。おそらく、常にユーザの要求というのは混沌としていて、矛盾している。いかにそのすべてにそのまま応えないかということが、デザイン行為においては重要になるだろうと思う。

クリストファー・アレグザンダーが「housewife(主婦)」という表現で示しているのは、秩序ではなく、機能に侵されて、感覚を失ってしまった人間の性質のことだと思う。

 

技術の発展は、混沌を力づくで押さえつける方法を人間に与えている。照明や空調は秩序からの解放をもたらすと同時に、総合的な組織の感覚(”sense of the overall organization the form needs in order to contribute as a whole to the working order of the ensemble”)を奪っている。

団欒の場である居間の隣に、静寂を必要とする寝室を配置できるのは、防音材のおかげである。集中という観点では、ノイズキャンセリングのヘッドホンも都市の混沌、矛盾を力づくで解いていると思う。

 

技術は必要であり、重要である。しかし、技術を以って、すべての要求を満たそうとすることをデザインや問題解決だと思ってはいけないだろう。

中心となる秩序があって初めてデザインとして、問題解決として成立すると思う。本来は、何も手を加えることなく維持されるものが美しいと思う。

 

大きな構造は「デザインされる」べきだと思う。しかし、それでは満たされない要求は存在する。一次的には、個人が技術を活用することで、それらは解決される形が望ましいように思う。全体構造と、個別要求は、異なる原理を持っているから、異なるソリューションによって満たされるだろう。

 

磯崎新の『ル・コルビュジエとはだれか』に収録されている「私にとってのアクロポリス」の中に、ポール・ヴァレリイは自然がつくりだす秩序と人為的な、理性の産出による秩序を対比し、理性的秩序を賞賛しているが、アクロポリスの「廃墟」はその理性的秩序が、自然的秩序によって浸蝕されていく過程をみせているという記述がある。

技術は、理性的秩序に属すると思う。そして、理性的秩序は自然的秩序の中に包含されているものではないかと思う。人間も理性も、自然的秩序から発生している。

 

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