世の中のほとんどの問題、おそらくはすべての問題は、「意味はわからないけれど、解くことはできる」というものだと思う。
僕は意味という問題にはそれなりに興味があって、意味であったり本質であったりを考えることが好きだと思う。一方で、歳を取ったからか、いわゆる「仕事」をし始めたからかはわからないけれど、意味と問題解決を切り分けることを覚えたし、切り分けた方が意味を探究するために合理的なこともあると思っている。
先日、面接でお話しした方が、「勉強が嫌いだから、理系を選んだ」と教えてくれた。理系の方が答えが一義に決まりそうで、めんどくさくなさそうだと思ったらしい。どうせやらなきゃいけないなら、面倒は少ない方が良い。彼女にとっては、(おそらくは忌々しいという意味で)純粋数学の存在理由が気になったらしく、大学では数学を専攻しているという。
また別の方は、受験のために勉強するという枠組みに違和感を感じて、高校から海外に行ったが、就職活動で同様の、枠組みによる違和感を感じていると教えてくれた。
どちらの話も、意味と問題解決について語っているのだと思う。前者はどうせ意味なんてわからないから、解くのは楽な方が良いと言っていて、後者は意味がわからないから、問題解決に取り組むのが苦しいと言っているのだと思う。
意味を探究するためには、問題を解くことも必要だと思う。解くことで見えてくるものがある。但し、解いているときには実は意味はわかっていないという点は大切だと思う。すごく単純な話として、僕たちは「1+1」の意味はわかっていなくても、テストで「1+1」という問題は解ける。覚えている、解ける、わかる(「わかる」という行為が可能かは別として)はまったく別の行為で、それぞれの効用と限界を自覚することで思考のスムーズさを保てるように思う。