僕は人には優しくあれた方が良いし、人を殺したり、自殺をしたりということは、とりあえずは調和的でないと思っている。人が悲しむということ、人が死ぬということは、やはり何かを喪う感じがする。
なぜ人を殺してはいけないのか、という問いに対するよくある回答は、人間の、他の生物に対する競争優位の源泉が「集団」であるというものだと思う。集団であることによって、無力な人間は他の生物より優位を保っている。集団を損なうような徳性は、どちらかというと排斥されていくのだという説明である。
中村元によると、初期仏教はもう少しシンプルな説明を行なっていて、「すべての人々は生を愛し、死をおそれ、安楽を欲しているから、自己に思い比べて、他人を殺してはならぬ、また殺さしめてはならぬ」という。控えめに言っても、僕はあまり殺されたくはないし、そうであれば、殺さない方が良さそうである。
一方で、機能としては人を殺したり、自分を殺したりという能力を人は有している。それはそれで、よくよく考えるべきことだと思う。そこにもきっと、何か意味があるはずだろう。もしかしたら、知能の発達のために必要な徳性なのかもしれない。
愛するだけでなく憎むこと、善だけでなく悪。そういう観念、そして、二元論に縛られることも、そこから脱しようとすることも、すべては人間の徳性だろう。大切なことは、容易に信じないということだと思う。おばけの存在は信じていないのに、宇宙の存在は信じているというのは、いささかおかしい。そういう感覚は、わりと大切なことだと僕は思っている。