交わること、触れること

生きているといろいろな人や物事に出会うけれど、出会ったとしても、ほとんどは(あるいはもしかしたら、すべては)流れていく。そんなことは当たり前だと思うかもしれないが、なにかと交わってしまった時、触れてしまった時にこそ、いかにあらゆるものが流れているのかを感じるように思う。

 

現実問題としては、流さないと生きていけないだろう。物事の本質に触れるとか、大切に生きるとか、そういう議論の多くを僕があまり好ましく思えないのは、触れるとか大切とかの裏側にあるはずの流しているという事実、疎かにしているという事実を大切にしていないように感じるからだと思う。

少なくとも僕は、かなり疎かに生きている。ただ、疎かに生きていて、ほとんどのものを無視したり、大事にしたりしていないからこそ、交わったり、触れたりした瞬間に感じるものがあると思っている。

 

時間的な長さとか、物理的な近さとか、そういうものとは必ずしも相関しない形で、交わったり、触れたりということは成立すると思う。交わり触れて、大切にしたいと思う、そういう感情は尊いと僕は信じていて、そういう瞬間をありがたく思えると良いなと思う。

もちろん、ほとんどの時間·空間では忘れているそういう感情は、忘れているということを含めて、何か本質的なものに近いのかもしれないと感じる。