普段はそれほど意識しないけれど、生きることは確かに辛いというか、哀しいというか、そういうことを感じることがある。
それぞれがそれぞれに生きていて、互いに主張があって、何かしらの希望を求めて生きようとしている。そういうことがなんとなく辛く、哀しく感じてしまう。応援したい、もしくは、応援すべきだと思うのだけれど、うまく感情が動かないような感覚を持ってしまう。
西田幾多郎の『思索と体験』の中に、「物は種々の関係に入って而(しか)も己自身を維持する所にその実在性を有する」という言葉がある。絶対的に単一であって何らの関係に入り込まないものは、未だ何らの実在性を附与することはできない。真の実在はそれ自身に内面的必然を有ったものでなければならぬ、と。
これは多分に僕自身が空虚だからだと思うのだけれど、僕には内容がよくわからなくて、なんとなく哀しい気持ちになってしまうのかもしれない。自分に内容があれば、他人の内容というものもわかるのだろう。ただ、それがわからないから、人々の希望が揺らぎのように見えて、哀しくなる気がする。
「種々の関係に入って而も己自身を維持する」というのは、とても困難だと思う。現実の中に実在する、というのことは難しい。それはつまり、自分というものを知ること、それに徹底することが難しいということだと思う。
人は、というか、少なくとも僕は、自分というものがなかなかわからない。揺らぎも含めて、今ここにあるということがなかなかわからない。それを知ろうとすることが、生きることのテーマだと良いなと思う。