自分

人間には「自我」というものがあって、基本的には自分の思い通りにしたいと思うものだと思う。眠いと思っている時に起こされるとイライラしたり、作業や順序を邪魔されてケンカをしたり、といった感じで、衝突することも多いだろう。

「自」という字には「より」という読み方もあって、何かの始まりであったり、起点や起源であったりという意味合いもある。中国語では「自始至終」で、始まりから終わりまで、という意味になる。

 

この自我というものは、普通の感覚でいうと他者とは切り離されている。「自分」という表現もあって、自らは分かたれている、という感覚なのかなと想像している。自他や彼我という言葉は他者との分断をイメージさせる言葉で、自分と他人は別物であり、かつ、それぞれは独立していることを感じさせる。

そういう気分が二元論であったり、ヘーゲルの弁証法であったりに繋がっていて、彼らの方法では矛盾は対立として記述できて、対立しているということを前提に論理を発展させようとする。これはこれで、とても大切なことである。

 

自分は決して、独立していないと捉えるのが東洋で、それは本質に近いと東洋人である僕なんかは感じるが、他者との繋がりによる存在は曖昧で、論理としても弱くなりやすい。また、繋がっているという感覚から感傷的に過ぎるところも生じて、その点も注意が必要だと鈴木大拙は指摘している。

ケンカを見ると愚かだなと感じることもあるけれど、僕自身もわりとケンカをしてしまうし、それは「自分」がある証拠で、尊いことでもある。衝突は別に悪いことではない。一方で、誰かがいてくれるからケンカができるわけで、自分と他人は別かもしれないけれど、互いによって互いがあるという感覚も大切だと思う。