人間の存在であったり、言葉であったりは、だんだん曖昧になっているように感じる。曖昧というよりは、点だったものが分布になっているという方が近いかもしれない。
僕は元々、多面的な存在というイメージを人間に持っていて、例えば、状況によって人間の人格や役割は異なっているし、物事というのは光の当て方次第で意味合いが変わると思っている。しかし、それはあくまで一定しっかりした境界を持った個体で、ある瞬間で観察すれば、その人がどういう存在なのかをある程度は知ることができるという想定である。
ここで曖昧とか分布と呼んでいるのは、古典力学と量子力学の違いに近いと思う。古典力学の観察と量子力学の観察は本質的に異なっていて、古典力学と違って、量子力学では物理量は分布や揺らぎを持っていて、観察によって一意に定めることはできない。
僕は古典的な人間なので、どうしても古典的なイメージで世界を捉えてしまうけれど、おそらく今の若い世代にとって、存在が揺らいでいることは自然に理解できるのではないかと思う。オンライン/オフラインで同時に複数の人や物事と向き合っていて、ある瞬間の自分が一意ではなく揺らいでいるというのは、自然なことなのではないかと思う。自分は多面的であるというより、自分には揺らぎがあるという方が自然なのではないかと思う。ちょうど、100年前には不自然に感じた量子力学を、今の僕たちが自然に感じるように。
この現象の原因はいろいろあると思うけれど、例えば相互作用(コミュニケーション)の急激な増加は原因の1つだと思う。そして、これからの人間にとっては、曖昧なものを曖昧なままに受け取ることが自然になるのではないかと感じている。
正確(それが何を指すのかは難しいが)に伝えることではなく、なんとなく伝わっていって、人によっては「なんとなく」の中になんとなく本質を見つけていく。そして、その本質は人それぞれによって異なる。これは本質的に「なんとなく」であって、確かなものをなんとなく感じているわけではない。まだあんまり考え切れてはいないけれど、なんとなくそういう気がする。