「教育現実」という言葉がある。教育の場において現実とされる概念世界、というくらいの意味だとなんとなく理解している。社会において現実とされる概念世界である「社内現実」に対して、その言葉が使われるらしい。
例えば、死や老い、性や差別などについて、社会現実に対して教育現実をどの点に置くかといったことが問題になる。過度の教育現実は(もしくはあらゆる教育現実は)洗脳的であるかもしれないが、社会によって繁栄を実現している動物である人間にとって、教育現実は必要であるという面もある。僕たちは社会を破壊しない範囲で批判的であることが可能だろうと思う。社会が破壊されれば、批判する対象が失われてしまうのだから、批判は社会への信頼や甘えによって成立している。
教育現実は例えるなら「壁」であり、基本的には教育という行為や現場、それに関わる人々を守るためにある。しかし、情報化によって壁が意図通りに機能せず、むしろ環境を破壊する要因にもなり得る。壁の外の世界を容易に知ることができることによって、壁の中では指導者に対して不信が発生する。「先生は、本当のことを教えてくれない」と感じる。
「壁」であるのはなにも教育現実に限らず、社会現実も壁なのだから、『進撃の巨人』という漫画で描かれているような複数の壁に囲まれた世界というのはメタファーとして実際に近いと思う。より大きな壁を支配している人は、おそらく自分のことを偉いと思っているが、壁の外では無力である。一方、壁の存在が疎ましいからと言って、壁の先に解があるのかというと、普通はあまり無いと思う。壁の外に解が乏しいから、壁が存在している。人間は自ら壁を作ってしまう生き物であるとも思う。
僕たちは意識するしないに関わらず、壁の影響を受けている。なるべくなら、それに自覚的でありたいと思うけれど、思考は通常は外部との交信によって成立しているのだから、世界と僕はある意味で同じものであり、自覚と無自覚の境界は曖昧だと思う。
自覚的とは、境界を意識することだと思う。一方、境界が曖昧であることが感性においては大切だと思う。なるべく自覚的でありながら、たゆたうように生きることができれば、少しだけ世界に触れられるのではないかなと感じる。