嘘つき

僕は、嘘は必ずしも悪いことだとは思わないし、むしろ生きていくためには多少の嘘は必要だと思っている。僕自身で言えば、嘘をつかない日はおそらく無いのではないだろうかと思う。

「元気?」と聞かれれば多少不調を感じていても「元気」と答えるし、「大丈夫?」と聞かれれば多少不安でも「大丈夫」と答える。逆に少しサボりたい気分の時は「少し調子が悪い」と答えるだろう。若い頃は「好き」という表現にかなり抵抗があったけれど、それも必要に応じて使うようになったと思う。そもそも、真実が何かなんてことはわからないということもある。

 

嘘をつく時に少し気にしているのは、それが持続可能かどうかということで、そう簡単に人生はリセットできないので、長期的に見て都合が悪くなりそうだったり、自分自身を苦しめそうだったり、大事な関係が壊れそうな嘘はなるべく避けた方が楽だろうと思っている。

逆に言うと、短期で見れば嘘をついた方が利益を得やすい。嘘は短期的にはプラスだが、長期的にはマイナスだろうというのが、僕の感覚である。詐欺は短期的には非常に利益を得られるだろうし、詐欺やそれに近い行為を関係性が深く依存関係にある相手にはあまり行わないのも、それを表現していると思う。

 

嘘つきは、「嘘吐き」と書く。これはある程度、嘘という行為を侮蔑した表現だと思う。僕らは嘘無しには生きていけないけれど、上手な嘘というは難しい。

多少の嘘は許し合って生きたいと思うけれど、自分がそれに見合うかというと、それはまた難しいなと思う。多分、許すことも許されることも本当は簡単な話なのだろうと思うので、自分自身はなるべくそうありたいなと思う。