積木

正義は、積み上げられた積み木の、パーツのどれか1つのようなものだと思う。

例えば、積み木でお城を作ったとして、その1番上にはある「積み木」がある。それを掲げて、人は「これが正義だ」と言う。あなたもこの「積み木」を積みなさいと言う。ただ、その「積み木」の存在は、その下に積まれたたくさんの積み木たちによって成立している。どれか1つの積み木の位置が少しズレただけで、お城は簡単に壊れてしまう。

 

もちろん、「正義」と呼ばれるからには、その積み木たちはコンクリートで塗り固められていたりもするだろう。1つや2つの積み木を抜いたからといって、容易に崩れることはないかもしれない。ただ、まったく土台がないお城の屋根を作ることはやはりできないだろう。

そう考えると、すべてとまではいかなくても、かなりの文脈を共有できていなければ、正義は共有できないということになる。現実世界では、文化や価値観、経済的な環境、地理的な環境、…といった様々な文脈が存在している。そして、どれか1つが共有されていないだけで、簡単に争いが起きる。共有されている気分の人たちが正義を語り、共有されていない人たちは批判される。ずいぶんと滑稽だと思う。

 

だから、正義なんてものは無い、と僕は思う。あるのは、好きか嫌いか、だ。争いはたいてい、好き嫌いの話だと思う。ただ、人間は群れる生き物だからなのか、仲間を求めて、正義を作る。疎外しなければ、分断しなければ、仲間になれない。

どうすれば他者と繋がれるのか、僕にはしばしばわからなくなる。疎外したり、分断したりしてまで仲間が欲しいのか、ときどきわからなくなる。世界が積み木の作品展だとすれば、できることなら積み木の声に耳を澄ませて生きてみたい。