本を読む

何を以て「本を読んだ」とするかは、なかなか難しいと思う。「内容の理解」という定義は、そもそも「内容」と「理解」の定義が困難な一方、「文字を目で追う」ことを以て読んだと主張することは困難に感じる。

 

東洋に「素読」という文化があるのは、「ただ読み、覚える」ことに効用があるからだと思う。覚えておけば思い出せる。そもそも素読で扱われるような文章は、人生をかけて学んでいくような類のものも多い。人生の様々な場面で思い出し、学び直せるように記憶しておくというのは意味があると思う。

覚えたかどうか、は測定可能なので、「本を読んだ」という行為の定義として成立するのも良いことだと思う。

 

辞書のように都度、調べることを目的とした本は別にして、多くの本においては、それを読んだ前後で観方や考え方が更新されるような読み方ができれば、一応「読んだ」と言えるのではないかと思う。

別にすべてのページをめくる必要はないし、どこまで深く読めたかも問う必要はあまり無くて、その本を通じて、何かを感じられれば良いと思う。古くから言われるように、「本を撫でる」ということもあるだろう。

 

理想的には、その本を通じた自らの変化が好ましく、日々の営みを新たにしていくようなものだと良いなと思う。だからこそ、自分でとって良い本は、何度でも「読む」ことができるのだと思う。