解決の源泉 – 学習を可能にするもの

人間であったり、機械であったりにおいて、学習を可能にするのは「中間イメージの存在」であると言われる。中間イメージの在り方は人間と機械で異なるのだろうと思うが、中間イメージが知覚のグループ化や一般化を可能にし、ある認識に基づいた行動(実際的な解決行為)を導く。その全体をなんとなく「学習」と呼ぶのだと思う。

例えば、「ネコ」というイメージは我々が目にするネコそのものではなく、ネコに基づいた(おそらくは単純化された)中間イメージで脳もしくは機械の中に格納されており、それとの照合によってネコと判じられる。この中間イメージをどう構成していくかが、学習という行為と関連している。

 

飛躍的に進歩した自動翻訳の機械学習の1つにおいては、(例えば日本語から英語への翻訳だとすると)まずインプットされた日本語を中間イメージによって英語に翻訳する。そうして翻訳されたアウトプット(英語)を例えばGoogle翻訳で再度、日本語に戻す。

最初の日本語と最後の日本語の意味的な距離をレーベンシュタイン距離などのアルゴリズムを組み合わせて評価し、その距離を最小化する方向へ中間イメージを調整していくと「学習」が発生する。

 

専門家ではないので誤っている部分もあるかと思うが、概念的にはおおよそこのような感じのことが為されているのだと思う。注目すべきなのは、知覚のみから中間イメージの構成および調整を行うことができないことである。

知覚のみから中間イメージを構成しようと思うと、知覚のグループ化、さらには一般化を行う必要がある。しかし、中間イメージを可能にしているのは、意味の距離を測ること、つまり「意味を伝えようとする」という行動であって、知覚ではない。行動が存在しないと、知覚はグループ化や一般化のとっかかりを得ることが出来ず、すべてを別の事象として扱わざるを得ないだろうと思う。

 

問題解決においては、一定においては結果がすべてだと思う。解決できたか、できなかったか、である。もちろん、解決の度合いはあるが、解決できたかどうかは問題解決という行為を支える重要な根幹だろうと思う。

解決できていればおそらくは正しさが含まれているし、解決できなければ何かが間違っている。そうと解釈するしかない。だからこそ、問題自体が間違っていると悲惨なことになる。

 

解決とは、行動である。行動によってしか、問題解決は前に進まないと思う。

解決できない場合、つまり行動が思うように進まない場合に、知覚をねじ曲げようとするのは、人間の厄介なところである。中間イメージ(認識)ですらなく、知覚(世界それ自体)をねじ曲げてしまうと、話がややこしくて進みづらくなってしまう。繰り返しになるが、解決を可能にするものは行動しかない。行動はイエスか、ノーである。

 

本題である問題解決とはずれてしまうが、中間イメージの実態がよくわからないものであったり、評価が困難なものであったりは、機械より人間が担った方が合理的なのかもしれないと思う。

一方で、評価のみが重要な事柄については機械に任せた方が合理的なように思う。