カラフル

「死」というシステムが生命を持つものたちに組み込まれていることは、当然に合理性を持っていることだろうと思う。

考え方はいろいろあると思うけれど、リソースというのは一義的には限られていて、かつ、1つの場所に留まり続けたりはしない。気温ひとつ取ってみても、夏は暑くて、冬は寒い。ある植物であれば、夏に咲き誇り、秋には枯れ、冬は種となり、また春に芽吹く。ある種の「死」を孕んだ構造が、植物を存在させている。

 

「死」は変化の一形態だと思う。そして、世界は留まることなく変化している。「死」が生命を持つものと世界を繋ぎとめている。

「死」というシステムが存在しないと、生命の存在はずっと困難になるように思う。リソースの問題から、「死」が無いと「生」を生み出しづらい。「死」は絶望にもなるし、希望にもなる。感情的な側面からは、「死」は絶望と希望の調整機能でもあると思う。

 

「死」も「生」も存在を調整しているのであれば、個々の存在については多様なベクトルとスカラーを有していた方が調整機能にとっては都合が良い。多様な方が柔軟性がある。多様さはシステムにとってはポジティブさを持っている。(もちろん、同時にネガティブさも持っているという前提で…)

こじつけだけれど、僕らが多様さを愛していても、ごく自然だということだと思う。生命を持つものが生きている間に為していることは、今をカラフルにすることではないだろうかとも思う。