夢中

夢中、はなんとなく良いものだと思われている。本気になれるもの、情熱を持てるもの、そういうものを見つけた方が良いと言われる。

それ自体はそうかもしれないが、他人にそれを要求するのは勝手だと思う。何かに夢中な人は、他人に夢中を求めたりしない。夢中なのだから、他人の夢中に関わっている暇など無いと思う。夢中や情熱を他人に求める人は、単にその方がその人自身が楽だったり、便利だったりするからだと思う。

 

僕自身は、小さい頃から夢中とか本気とかいうことが苦手で、むしろ正体を失ってしまうような気がして、避けていたように思う。高校まではバレーボールをやっていて、好きだったとも思うけれど、勝ち負けに拘るということは苦手だった。わざわざ勝敗をつけるということに意味を見出せないということもあって、大学からは合気道を始めた。

夢中になれなくてもよいし、まして、無理矢理に夢中を見つけるというのはあまりセンスが無い。日常は多くの場合、なんとなく好きなものと、なんとなく嫌いなもので構成されていて、それを感じ続ける中で、いつも自分の近くにあるものを認識していく。それを深めていく、ということが少しでもできれば、それは十分に尊いと思う。安易に夢中というラベルを付けることで失われるものも多いと思う。

 

もちろん、これは凡人の話で、何かに没頭し、ある道で類まれな事績を成し遂げる人はいるし、人々はそれに憧れる。憧れている、ということは、そうはなれていないということだろう。ただ、憧れるということは尊いので、天才という存在は偉大だと思う。

夢中になれるのであれば、夢中になると良い。ただ、無理に夢中になろうとするのは、やはりどこかで歪みが生じてしまうと思う。まして、他人にそれを求めるのは筋違いだろうと僕は思っている。これは夢中に限らず、「貢献」であったり、「努力」であったり、「論理的」とか「創造的」まで、すべからくそうではないかなと思う。そうありたいのであれば、ただそうあれば良い、と個人的には思う。