淡々

無感動、ということではなくて、淡々という過ごし方ができると良いなと思う。やるべきことを、1つひとつ進めていく。それに取り組み続けることは難しいけれど、続けるということが尊いと思う。

気持ちとしては、好きなこと、自分が大切だと思うことに向かいたいと思うけれど、目の前の出来事や仕事に取り組めないことには、好きなことを続けていくということも難しいのではないかと思う。それは精神的な意味合いに留まらず、実際的にも、例えばお金の問題だったり、機会の問題だったりは、目の前の物事に取り組み続けることで持続可能になるように感じる。

 

淡々と過ごしていくためには、気長、ということが大切だと思う。今すぐにカタがつかないことの方が多いし、カタをつけるということは、物事を終わらせてしまう。

今、目の前で片付いていかないということに、つい苛立ってしまって、人や物に当たってしまうこともあるけれど、当たったところであまり物事は進まない。一方で、当たってしまうという気持ちを受け止めてくれる人が身近にいるなら、それはずいぶんと幸せだというのも大切なことだと思う。

 

利休百首』というものの中に、「茶の湯とは たゞ湯を沸かし 茶をたてゝ のむばかりなる 事と知るべし」という句がある。僕は茶道にはまったく心得はないけれど、そういうものなのかなと思う句だなと感じる。ただお湯を沸かして、お茶をたてて、のむ、ということにすべてが詰まっているというのが、利休の考え方なのだろうと思う。

繰り返しになるが、それにすべてが詰まっているのだから、それは決して無感動にはならない。淡々、は無感動ではない。無感動、ということではなくて、淡々という過ごし方ができるように、少しでも考えたり、工夫したりして、日々を過ごしていけると良いなと思う。

利休百首