透過光、反射光

ちょっと何が本当の原因なのかはわからないけれど、ディスプレイのような透過光メディアと紙のような反射光メディアでは、学習特性が異なるという研究がある。

現時点でのメディアやデバイスの性能では、紙の方が長期的な記憶定着に有利で、細かな分析・批判に向いており、ディスプレイの方がおおまかな理解やパターン認識に向いているという研究が多いようである。

 

短期記憶についてはあまり差異が出ないであったり、パソコンでタイピングしているとその定着効率が高いといったりという主張もある。当然、書く作業における身体的・神経的な影響もあると思う。同じ紙であっても、色合いや感触によって異なるとも思う。ウェブやアプリだとリリース前に気づかなかった間違いに、リリース画面で気づくということもよくあるので、モードの違いも大いにあると思う。

立場も含めて、仔細に入ると混乱しそうなので、ここでは特性に差異があって、細かい部分にも気づきやすくて、記憶に残りやすい傾向がある紙と、パターン認識に向いていて、くつろいで眺めていられるディスプレイ、くらいで理解しておきたい。

 

「何かを通じて、何かを見る」という日常的で、かなり慣れていると思っている行為でも、自分の認識がそれほどわかっているわけではない。多少はわかっていることがあるとしても、わかっていることを認識して行為ができていることは少ない。

自分が何を見ていて、どういう仕組みで、なぜそのように認識するに至っているのか。それがどうあると、自分にとって好ましいのか。もちろん四六時中、そんなことを考えて生きているのも難しいのだけれど、自分にとっての世界の感じ方を知ろうとすることは、僕にとってはとても大切なことのように思う。

歩道

深い地下にある降車駅からエスカレーターを4本ほど上がって地上に出て、すぐ目の前にある横断歩道に向かって歩道を横切ろうとしたところで、歩道を自転車が通り過ぎようとするのを感じた。乗っていたのは小学3-4年生か、5年生くらいだろうか。

礼儀正しい少年で、スピードを緩めて止まってくれて、「どうぞ」という感じで手振りと目で促してくれたので、子どもを優先して通してあげた方が良いかなと思いつつ、その振る舞いに感謝して、そのまま目配せと軽いお辞儀をして先に通させてもらった。

 

自転車は車道が基本だけれど、13歳未満は歩道を通行することができる。彼はちゃんとヘルメットも被っていて、とても自然に歩行者に道をゆずってくれて、僕もそこまでぎこちなくならずに彼の好意を受け止めて、謝意を返せたような気がして、少し嬉しく感じた。

というは、完全に僕の主観なのだけれど、思い込みだったとしても、相手も自分もポジティブを共有しているような感覚というのは、優しい思いやりの良さを感じさせてくれると思う。

 

様々で複雑な事情は置いておいて、人と人(に限らず、動物でも植物でも、場合によっては無生物でも)の間に、何か互いを肯定するような感情が流れるというのは、幸せなことだと思う。身近な存在だと、なんだか難易度が高くなってしまうような気もするのだけれど、笑顔で、軽く目を見て挨拶を交わしたり、感謝を伝えたりすることの効用はとても大きいと思う。

本当に何かが共有されているのかはあやしいし、実際には独立した感情がそれぞれに発生しているだけなのだろうと思うけれど、そういうものが「思いやり」というものに近いのかもしれないと思う。

壮年

僕はおおよそ壮年を終えて、中年になっている。もちろん人によるのだろうと思うが、青年というのは何も持っていなくて、何かを手に入れたいと望むけれど、それが何かもわからず、なかなか手に入らない時期だろう。無論、失うほどのものもあまり持たない。(少なくとも、自身ではそう感じていることが多い)

壮年になると、それぞれに分相応に、いくつかのものを手に入れ始める。そして、失うものは少ない。それが中年になると、手に入るものが少なくなっていき、失うものは増えていく。おおまかに見て、そういう構造があるように思う。

 

これはまあ、自然の道理なので、ある程度の努力はしながらも、基本的にはこのような構造、このような法則を受け入れながら生きていくことが、個人的には大切ではないかと思う。というか、なかなかそういう気分にはなれないからこそ、きっと真理だろうし、その中でいかに生きるのかが取り組むべき問いとして大きいのではないかと思っている。

これを悲しいというのであれば、季節の巡りも悲しいし、草木が朽ちていくのも悲しくなってしまう。しかし、秋は自らの終わりを悲しいとは思わないだろうし、草木も朽ちていくことを悲しいとは思っていないように思う。自らではないにせよ、また巡り、また芽吹き、また朽ちる、その一部に過ぎない。

 

二十歳すぎまで感じていた虚無を、最近はまた感じるようになった。ただ、その「虚無」が同じものなのかはわからなくて、若い頃は明日に何も見出せないような感覚だったのに対して、近ごろはずっと続きそうな何かを恐れているように感じる。おそらくもっと歳をとると、「死という虚無」を意識するのかもしれない。

とにかくも、今日を生きる、ということに尽きると思う。

分別

幼いころというのは、分別がない。自分と他者の違いが曖昧で、世界は混沌としていて、どこからどこまでかはわからないけれど、そんな融合した世界をそのまま受け止めて、嬉しくなったり、楽しくなったり、悲しくなったり、辛くなったりする。とても美しいことだと思う。

それがだんだんと、彼我の違いを意識するようになってくる。そうなると、いろいろなものがはっきりしてくる。はっきりしてくると、思考は分析的になる。こちらはあちらでない、こちらとあちらは違う、ということを考える。なんでも、はっきりしていないといけないような気持ちになって、神経質に考えるようになる。その危うさにもまた、張り詰めた美しさがあると思う。

 

自分がそれくらいの年齢のころにも、似たようなことを考えたように思うけれど、久し振りに中学生と話して、「幸せについて考えることには、不幸せからの逃避という意味がある」というのを聞かせてもらった。幸せは、少なくとも不幸せではない、ということだと思う。

僕自身は「幸せがあるから、不幸せがある」と10代の頃は強く考えていて、「不幸せにならないために、幸せになってはいけない」と思っていた。主張は少し違うかもしれないけれど、分別的で、分析的という点では、中学生の彼の話と似ていると思う。なんとなく融合して、混沌としていたものに対して、それがなにであるかを少しでもわかりたいという気持ちがそうさせるのだと思う。

 

そういう分別を経て初めて、物事は混沌としているという分別が少しずつ身に染みてくるように思う。混沌としたものを混沌としたままに受け入れて、そうでありながらその中に秩序、つまり美しさを見つけていく。そういう分別がある人間になりたいし、少しでもそれが身に染みたのであれば、それをなるべく忘れずに、失わずに生きていきたいものだと思う。

怪我

先日、気付かないうちに腕を擦りむいていた。年に数回くらいは、どこで怪我をしたんだろうと思うような小さな傷や、ちょっとした油断で刃物や紙で指や手を傷つけてしまうことがあるように思う。

歳を取ると、例えば全力で走っていて盛大にころび、怪我をするというようなことは少なくなる。もしそんなことがあれば、子どもとは違って、それこそ取り返しのつかないくらい大怪我になってしまうだろう。顔と肘と膝を擦りむいた、なんてことでは済まないと思う。

 

そういう大怪我は避けた方が良いというのはもちろんなのだけれど、ふとした怪我というのは、ふとしているがゆえの、生活への影響がある。例えば、肘を意識しないくらいのふとしたところで擦りむいてしまうと、実はそのふとしたところは日常的にいろいろなものに触れやすい箇所だったりする。そうなると、擦りむいた箇所を繰り返し擦りむいてしまうことになって、なかなか治らない。そして、ちょっと痛い…。

人差し指の先なんかもそうで、ナイフや紙で不用意に傷つけてしまいがちだけれど、僕の場合は考え事をしたりするときなんかに、なんとなく指先に触れてしまうことがあって、それが傷口を開くような動きになってしまう。

 

そう考えると、気付かないくらいの怪我というのは、まさに薄皮に守られて、普段はなんともなく過ごせているだけなのだなと思う。少なくとも僕は、いろいろなものにぶつかりながらも、その薄皮によって自分は無事なのだと思っている。

これはふとした怪我もそうだし、例えば身体的な不調だったり、精神的なバランスだったり、そういったものも似ているのではないかと思う。大抵のことは無事の範囲内から少しはみ出しただけで、回復が一気に困難になるし、その薄皮は意外と丈夫で、意外と脆い。

エスカレーター

今年の春は、ベランダに小さなプランターを並べて、いくつかの野菜を育てている。あまり難しいものだとうまくいかないと思うので、なるべく簡単そうなものということで、ラディッシュ、小松菜、カブ、ニンジンの種を蒔いてみたのだけれど、我が家のベランダの日当たりの良さと気候の良さのおかげで、無事に芽を出して、少しずつ大きくなっている。

成長の様子を見ていると、当然だけれど、野菜によって得意な気候が異なっていて、小松菜がぐんぐん伸びるのに対して、ニンジンはもう少し気温が上がらないとしっかり伸びないらしい。種ごとの個性もあって、人間の都合としては生育を見ながら適切に間引くこと、と一般には説明されているので、「どれも元気そうだけど…」とためらいながら少しずつ間引いたりしている。

 

芽が出て、それが少しずつ伸びていくと嬉しいし、そもそも花ではなく野菜にしたのは、最終的には食べられるというよこしまな気持ちもあって、毎日お水をあげているのだけれど、毎年、土を作って、育て方であったり、品種であったりを改良し、より自分が目指す育て方を探究していけるかというと、そういうイメージはあまり持てていない。

どんなに些細なことでも、何かを続けていくということは大変なことだと思う。まして、それが高度な技や知識となれば、次元も違ってくる。とても永く続く窯元を継ぐ陶芸家の方が、技を継いでいく事象を「下りエスカレーターを逆向きに上がり続ける」ようなものであると表現されていて、それはとてもわかりやすいなと感じた。

 

歩みを止めると失われていくしかない。しかし、上がり続けても上に登っていけるかはわからないし、まして「高み」のようなところは遥かに遠い。永く続いているものであればあるほど、断絶した時代も経験しているだろうから、その「高み」がどこなのかもわからなくなってしまうだろう。

学問であったり、武道であったり、どんなものでも探究とは「下りエスカレーターを上がり続ける」ことだと感じる。僕には何か継がなければならない「高み」があるわけではないのは、ある意味では恵まれている。終わりのない下りエスカレーターを上がり続けるようなことを、自分なりにどこまで想像しながら生きていけると良いなと思う。

否定

否定されるというのは、誰しもそれほど得意ではないと思う。否定に対して肯定的に反応するように訓練することは一定可能だと思うし、それはとても有効だとも思うけれど、結局はその前提として、否定への拒絶反応があるから肯定的に受け入れようという発想になる。

否定を過度に許せないことで陥る失敗は、それこそ失政や犯罪のように大きなものから、精神的・心理的な病、ちょっとしたイザコザや人間関係の不和といったところまで、多岐に渡る。

 

否定に対する反発は何かを生み出す原動力にもなるので、もちろん必要な側面も十分にあるが、大なり小なり否定されるということはあまりにも日常的なので、そのたびに刺激反応してしまうのはちょっと大変だなと個人的には思う。

感覚的には、おそらく人は何かを大切にしていればしているほど、否定に対して拒絶的に振る舞ってしまうのではないかと思う。その最たるものの1つは自分自身の存在だと思うが、何かしらの属性や性質を自分自身に引きつけすぎてしまうと、その属性や性質を否定されたことを存在に対する否定だと感じてしまって、過度な拒絶が起こりやすい。

 

それは「こだわり」のようなものと結びついているので、一概によくないとは言えないし、むしろポジティブに働くこともあるのだけれど、それでもあまりこだわりの強い人と過ごし続けるのは苦しいようにも思う。

否定と拒絶は、当然、肯定とも繋がっていて、肯定されることで自己と性質の結びつきが強くなった結果、拒絶もまた強くなる。大切なことは、どんなものに対しても、適度な結びつきであろうとすることなのかなと思う。自分自身についても、まったく簡単ではないけれど、それが自由であるためには大切だと思う。

好き嫌い

なんとなく、「好きなもの」や「嫌いなもの」を伝えることは特別だと思っている。好きなものも嫌いなものも、自分の弱さや醜さを晒してしまうような気がして、とりわけ思春期の頃からは怖くなってしまったというのもあると思う。

特に人間を好きになったり、嫌いになったりすることについては、自身の中の狂気が怖い、ということを若いころにはよく考えていたように思う。慎重と言えば聞こえが良いが、要するには、臆病なのだろう。

 

好きなものとも、嫌いなものとも、本当は適度に付き合えると良いのだと思うのだけれど、修養が足りないので、なかなかそうもいかない。好きなものは摂取しすぎてしまうし、嫌いなものは拒絶しすぎてしまう。

自分自身の立場や性質が変わったり、対象に対する見方や感性が変わったりして、好きだったものが苦手になることもあるし、嫌いだったものに近づくこともある。そう考えてみると、好きも嫌いも流れていくものなのだから、そっと思っていればよいことなのだけれど、ついつい和を乱してしまいがちである。

 

ただ、そういう危うさがあるから、それを伝える相手というのは特別だと思っているのかもしれない。正直、伝えられても困るし、場合によっては迷惑だろうと思う。伝えることで和が乱れるということもあって、伝えることには、好き嫌いそれ自体を超えた難しさもある。

だから、好き嫌いを伝えるというのは、やはり特別なことだと思う。いつか、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、とどんな時でも穏やかに言えるようになれたら良いなと思う。

飛躍

現実は飛躍しているが、人間というものはなかなか飛躍できないものだと思う。よくよく考えてみると、日々の変化というのは決して小さくなく、学ぶべきこともたくさんあるのだけれど、恒常性というのか、どうしても変わらずにぐるぐるしてしまう。

ホメオスタシスというとかっこよく聞こえるが、怠惰さだったり、自己防衛だったりが邪魔をして、違うことなのに同じように進めようとしてしまいがちだし、ちょっとした不安や恐怖から、気楽に踏み込むということを躊躇いがちだと思う。

 

もちろん、それは「自己」というシステムを維持するためにはとても重要だし、核とか軸とか、幹とか呼ばれるものはなくてはならない。型破りは良いが、形無しではいけない。

立ち戻れる場所というのも大切で、そういう「ホーム」を持っていないと、挑戦することは難しい。ホームにはいつでも戻れなければならないが、ホームに戻ることが目的になってしまうと本末転倒なので、ホームの持ち方というのにも工夫が必要だろう。

 

原始スペクトルにおける量子跳躍(quantum leap)であったり、第二世代システムで語られる非平衡開放系(散逸系)における秩序化、つまり自己組織化(self-organization)は、現実における飛躍の例である。後者はスチュアート・カウフマンによって、突然変異と環境淘汰による連続的な相互作用ではなく、自己組織化による飛躍が生物システムの起源であるという主張でも引用されている。

第二世代システムで(もちろん、第三世代システムとされるオートポイエーシスにおいても)いうまでもなく、自己の境界とは曖昧なものである。そして、自己組織化はある時に、何かしらの秩序が生じることで境界、すなわち秩序がそっくりメタモルフォーゼすることを示唆している。それは「自己」には滅多に発生しないことかもしれないけれど、そういう世界観に触れることで、どうしてもぐるぐるしてしまいがちな日々を楽しめると良いなと思う。

雨樋

屋根で受けた雨水を流し、導く、雨樋(あまとい、あまどい)という仕組みがある。

その起源は古く、奈良時代(700年代)には仏閣において、その存在が確認できるという。当時のほとんどの建築は茅ぶき・草ぶきで、屋根自体が雨水を吸収するものだが、神社仏閣では瓦ぶきの屋根が使われており、雨水を処理するための雨樋が設置されたようである。

 

繰り返しになるが、雨樋が必要になるのは、水を吸収しない素材が屋根に使われるケースである。そのため、長い間、一般的な家屋に雨樋が設置されることはなかったが、江戸時代になって、都市が発達するようになると広く普及する。

江戸といえば、大火に苦しんだことで有名だが、密集した建物でなるべく火が燃え広がらないように、茅や草ではなく瓦ぶきの屋根が推奨されたという。また、密集した家同士で、雨水がそれぞれの敷地や壁を侵食しないように、設置されたという面もある。雨樋は自分の家を守るためにも、近隣の家を守るためにも必要なものである。

 

当然だけれど、雨樋は晴れた日には何もしていない。しかし、雨というものは必ず降るものだし、時に激しく降るのだから、雨樋(もしくはそれに当たる機能)を持たない家は存在しないだろう。

組織も似ていて、晴れている時には何もしていない人、というのが必要だと思う。つい、「あいつは何もしていない」と言いたくなるし、言われた方も肩身が狭いような気持ちになってしまうけれど、それが組織の持続可能性を高めている。雨樋のように、緊急時の対応力になるのはもちろん、人間の集まりにおいては、そういう人がいることで息苦しさが和らぐという面もある。雨樋というのは自然の理を解した、なかなか良くできた仕組みだなと思う。