交わること、触れること

生きているといろいろな人や物事に出会うけれど、出会ったとしても、ほとんどは(あるいはもしかしたら、すべては)流れていく。そんなことは当たり前だと思うかもしれないが、なにかと交わってしまった時、触れてしまった時にこそ、いかにあらゆるものが流れているのかを感じるように思う。

 

現実問題としては、流さないと生きていけないだろう。物事の本質に触れるとか、大切に生きるとか、そういう議論の多くを僕があまり好ましく思えないのは、触れるとか大切とかの裏側にあるはずの流しているという事実、疎かにしているという事実を大切にしていないように感じるからだと思う。

少なくとも僕は、かなり疎かに生きている。ただ、疎かに生きていて、ほとんどのものを無視したり、大事にしたりしていないからこそ、交わったり、触れたりした瞬間に感じるものがあると思っている。

 

時間的な長さとか、物理的な近さとか、そういうものとは必ずしも相関しない形で、交わったり、触れたりということは成立すると思う。交わり触れて、大切にしたいと思う、そういう感情は尊いと僕は信じていて、そういう瞬間をありがたく思えると良いなと思う。

もちろん、ほとんどの時間·空間では忘れているそういう感情は、忘れているということを含めて、何か本質的なものに近いのかもしれないと感じる。

アンコンシャス

アンコンシャス・バイアスというのはアンコンシャスなのだから、気付けないということだ。「あなたはわかっていない」という批判は、アンコンシャスであることにアンコンシャスである、という構造を孕んでいる。

 

一方で、どこまでわかっていれば主張をして良いのかは難しいなと思う。生きていくということは、主張していくことである。そして、多くの場合は人と生きていかなくてはならない。僕が生きているように、誰かも生きている。身近な人であっても、遠い人であっても、もちろん確信はないけれど、たぶん生きていて、それぞれに主張がある。

仙人のような在り方もあるとは思うが、僕たちが仙人という存在を知るということは、仙人もまた、人と生きていたということだろう。僕が仙人という生き方の何に感じるかというと、その主張の純粋さ、シンプルさなのかなと思う。

 

少なくとも僕には、わからないことしかない。出来ないことしかない。それで人を不快にしたり、傷つけたりしていると思う。でも、不快にしたり、傷つけたりしたいわけではなく、僕は僕なりに何かを知りたい、取り組みたい、と思っている。それを最優先にはできないけれど、なるべくなら人を不快にすることは望んではいないし、なるべくなら焦らずに、何かに気付いて、気付いたならまた少し歩く、くらいで生きていけると良いなと思う。

なるべくなら、身近な人には幸せであって欲しいとも思う。僕の存在と誰かの幸せは、これは僕の主義として、関係はほとんど無いと思っているけれど、ごく単純な祈りとしてはそう思う。

共同体

現実、つまり、僕たちが今いる場所には法がある。ここで「法」と言っているのは、世界を存在させている決まり事、約束事、法則、みたいなものを指している。

すごく大きくわけると、人が作った法と、人が作ったわけではない法がある。睡眠が不足すると体調が悪くなるとか、怪我や病気がすぐに元どおりには治らないとか、そういったものは人が作ったわけではないだろう。一方、誰かを殺してしまったら、裁判といったプロセスを経て処罰される(私刑されたりはしない)というのは人が作った法だと思う。

 

人が作った法の一種とも言えるが、必ずしも明文化はされていない集団が作った法というのもある。誰かを殺したら、捕まるか捕まらないか、有罪か無罪かということに関わらず、「人殺し」だと言われるだろう。いわゆる規範とか、共同体意識とか、そういったものは集団が作った法だが、誰が作ったかは曖昧で、短期間に個人で変更することは困難である。

共同体というのは、原則としては意識の共有によって成立する境界が形成する。ある共同体には、その共同体に特有の意識があり、それを共有している存在によって、その共同体は構成される。家族にせよ、学校にせよ、会社にせよ、規範や意識の共有が共同体というものを成立させている。その共同体の境界の外では、その規範や意識は必ずしも成立しない。

 

生きていると、息苦しさを感じることもある。縛られている、閉じ込められていると感じることもある。大切なのは、そう感じるにはそれなりの理由や構造があると思うことだと思う。

どういう強さで、どういう範囲で、どういう効果をもたらしている法によって、自分は今、何を感じているのか。変更可能で、選択可能なものがわかれば、少し見通しが良くなることもあるはずだと、僕は思っている。そう思って、常に事象を見つめていたいと僕は願っている。

CODE VERSION2.0 (ローレンス・レッシグ)

緊張

純粋、ということに憧れる。なるべくクリアに、一点を見つめたいと思う。なるべくなら、常に。

 

人間というのは、思った以上に緊張しやすい。街で人とすれ違って緊張し、イライラしている人を見て緊張し、思考がまとまらずに緊張し、ベッドの中でもぐるぐると思考がめぐって緊張する。

もちろん、緊張は悪いことではない。ただ、緊張は思考であったり、身体であったりを滞らせてしまうこともある。思考であっても、身体運動であっても、十分に深まっていないと緊張する。十分に深まっていないと、余計な力が入るのかなと思う。1日の終わりに、そういうことを感じることがある。

 

「1点を見つめる」という表現はやや間違っていて、物事を認識するには差分が必要だそうだ。視点も完全に1点で静止すると認識のための差分が存在しないため、視界がまっくらになるらしい。適切な揺らぎ、ということに憧れるという表現が正確かもしれない。身体も完全に静止はできない。

大きすぎず、小さすぎない。速すぎず、遅すぎない。深く、クリアで、純粋であること。なるべくなら、常に。いろいろなものが押し寄せて、容易に混乱してしまうけれど、そういう在り方に憧れるなと思う。

カラフル

「死」というシステムが生命を持つものたちに組み込まれていることは、当然に合理性を持っていることだろうと思う。

考え方はいろいろあると思うけれど、リソースというのは一義的には限られていて、かつ、1つの場所に留まり続けたりはしない。気温ひとつ取ってみても、夏は暑くて、冬は寒い。ある植物であれば、夏に咲き誇り、秋には枯れ、冬は種となり、また春に芽吹く。ある種の「死」を孕んだ構造が、植物を存在させている。

 

「死」は変化の一形態だと思う。そして、世界は留まることなく変化している。「死」が生命を持つものと世界を繋ぎとめている。

「死」というシステムが存在しないと、生命の存在はずっと困難になるように思う。リソースの問題から、「死」が無いと「生」を生み出しづらい。「死」は絶望にもなるし、希望にもなる。感情的な側面からは、「死」は絶望と希望の調整機能でもあると思う。

 

「死」も「生」も存在を調整しているのであれば、個々の存在については多様なベクトルとスカラーを有していた方が調整機能にとっては都合が良い。多様な方が柔軟性がある。多様さはシステムにとってはポジティブさを持っている。(もちろん、同時にネガティブさも持っているという前提で…)

こじつけだけれど、僕らが多様さを愛していても、ごく自然だということだと思う。生命を持つものが生きている間に為していることは、今をカラフルにすることではないだろうかとも思う。

優越

人間に限らず、生物においては、種の保存に成功したものが現在も存在している。別に、種の保存が生物の目的だという主張ではなくて、単に現象として残ることに成功しているから残っているのだろう、という意味で。

これは任天堂の社長だった岩田聡さんのアイデアだが、残ることに成功したということは、すごく一面的には、うまく他者を出し抜いたというか、「わたしはあなたより優れています」というプレゼンテーションを上手にできたということだろう。

 

それが優越感という形で表現されるか、劣等感という形で表現されるかは時々だが、人間というのはアピールしたいような性質を自然に獲得しているということだと思う。

ちなみに、劣等感という表現形式は、知能からくるのか、集団という競争戦略からくるのかはわからないが、なんとなく人間において顕著という気がする。人間の生存は基本的には集団が前提なので(個では他の生物にすぐに滅ぼされてしまうため)、アピールして、役割や意義を生じさせるのかもしれない。

 

人というのはなにかしら得意なことがあって、それに取り組んでいる時が輝いていて、そして、アピール好きなものだろう。ただ、個人的には自分のアピール好きなところには嫌悪感を抱くし、気分の悪いアピールを見るのは苦手だと感じる。

そういうものだと思っていても、僕の場合はそういうネガティブな感情が生じてしまう。しかし、アピールせずに生きていくのはやっぱり難しい。なるべく気分良く生きられるような在り方であれると良いなと思う。

良い認識、について

問題解決に取り組む際には、まず最初に知覚すること、そして認識することが必要だろう。情報が無いことには、問題にどう取り組んでよいのかを考えることができない。

 

「認識」というのはある程度、哲学的な用語だが、ここでは「私が対象を把握すること」としたい。「認」という字が入っているので、知識に比べると、よりプロセスを意識した言葉だと思う。哲学的には、そのプロセスには主観であったり、精神の作用が必要とされる。

情報工学においては、自然情報処理の1つとして「パターン認識」というものがある。情報の中にパターンを見出して、音声や画像を選別し、意味を取り出す。「音声の自動書き起こし」や「写真を見て、猫だと思う」といったことだが、言語解析であれば対象としている言語や頻出の用語、画像解析であれば教師データと呼ばれるインプットが高精度な認識のためには必要だろう。それもある意味で主観・精神の作用である。

 

ものすごく単純化すると、私たちは常に「ルビンの壺」を見ていると思う。人によって見えるものは異なるし、同じ人であっても気分によって壺に見えたり、顔に見えたりする。そして、それから逃れることは基本的には不可能だと思う。

大切なことは、「少なくとも今、私にはこう見えている」ということを素直に認識すること。同時に、様々な認識をなるべくフラットに意識の上に並べることだと思う。そこに「正しさ」の意識を持ち込むと、途端に事態は複雑になるか、もしくは声の大きい人が主張を押し通すしかなくなる。

 

認識をフラットに意識の上に並べられるかどうかは、気分や体調にも依存する。そもそも「フラットかどうか」は相対的なものなので、認識を繰り返すことでどういう見え方があり得るのか、何故そのような見え方をするのかということが初めてわかる。

どういった認識に対しても、ある意味で保留しておくことで、認識を深めることができる。認識しないことで初めて、認識が可能になる。認識はするものではなくて、し続けるものであるという表現が適切かもしれない。

 

認識は問題解決の出発点だが、認識は問題解決ではない、という点には注意が必要だと思う。言葉は人を縛るので、認識については言葉にしない方が良いと思う。

認識を言葉にすると、意識が問題解決へと移行してしまう。認識を言葉にするのは、認識のプロセスが一定は完了し、意志として問題解決に取り組むタイミングになると思う。

苦痛

苦痛を愛そうとする気持ちは、生を愛していることをごまかさそうという気持ちだと思う。

生きていると苦しいことがある。生と苦痛は切っても切れない。ニーチェ等に顕著だが、苦痛を愛している人は、おそらくかなり自分を愛していると思う。希望と絶望が揺らぐから、生きることができるし、死ぬこともできる。

 

苦痛を愛することも生を愛することも、本質的には同じなのであれば、素直に生を愛せた方が幸せなのではないだろうかと感じる。苦痛の中には取り払うことができるものもあるので、そういった苦痛はなるべく取り払うと、なお良いと思う。

人類は飢えであったり、病であったり、暑さ/寒さといったりをやわらげてきたし、いろいろなものを便利にしてきたと思う。同じように、気分が悪い人との関わりはなるべく少なくした方が良いし、自分を害する情報とは距離を取る方が好ましいと思う。

 

もちろん、できないこともあるし、苦痛を愛することの甘美さにも効用はあると思う。それがどうしてかはうまく言葉にできないけれど、素直に、シンプルに生を愛することは、想像している以上に難しいという問題もある。

苦痛を愛するにしても、生を愛するにしても、大切なことはなるべく自分をごまかなさい、ということではないかと思う。もしかしたら、「愛する」ということが難しいのかもしれない。

強さ、優しさ

現代は、あらゆるものは相対的に語られることから免れない。「宗教的」という言葉は、ある教義がその宗教内において絶対的に扱われがちであるがゆえに、偏執的という意味として用いられる。

議論であったり、思想であったりにおいては正しさを議論することは難しいし、宗教における教義の正しさというのは二次的なもので、心が清らかで、性格が誠実で、行いに偽りがない、という人格や生活に尊敬が抱かれる、ということが本来的で一次的な信仰・宗教だと思う。どんなに言っていることが立派でも、嫌われて、排斥される人はいる。

 

強さ、というのも似ていて、(もちろん特性は議論できるが)どの武道・武術、流派が強いという議論を超えて、強い人は強いと思う。合気道の稽古を集中的にやっていた時期に、「合気道は強いか?」という質問をされることがあったが、強い人は強くて、武芸十八般ではないけれど、様々な研究・工夫を行っている。

理想論ではあるが、道であったり、術であったりに対して真摯で、真面目に取り組むということが強いということに繋がっていくのが美しいと思う。

 

強くて、優しいというのは、ただそれ自体に尊さがあると思う。どう強いのか、どう優しいのかを考えることは、それを確かなものにするために必要な思考・試行ではあるけれど、尊さはただ恐れずに取り組み、強くて、優しいということに宿ると思う。

人間というのは不純だし、いろいろなことが怖くて、思い通りには動けない。なるべく純粋に今を感じることをこころがけていくしかないのかなと思うし、少しでもそうありたいなと願う。

トレードオフ

二元論であったり、トレードオフであったりという考え方は必ずしも好きではないけれど、シンプルでかつ、真実を穿っていると感じる。だからこそ、汎く世の中で用いられているのだろう。

 

人間はとかく、物事の一面を見る。ポジティブな面に執着してしまうこともあるし、ネガティブな面に囚われてしまうこともある。それは多分に、感情のためだろう。事象そのものを見るということは基本的には困難で、人間は過去の経験に基づく、自分の尺度の中でうまく情報を処理しようとする。

怒られたくないと思って取り繕ったり、自分を可哀想だと思って落ち込んでみたり、他者との関係性の中で感情が生まれて、いろいろなことを考える。それはある意味で、生きるための知恵でもある。

 

ただ、事象には常に複数の面があるし、多くの事象はトレードオフという性質を持っている。例えば、「分散投資」という考え方はリスクは小さいが、大きな投資はしづらいし、機動力も落ちる。正社員の雇用は事業環境の変化に対して弱いが、組織へのコミットメントはやはり変わってくるだろう。1人は寂しいかもしれないが、嫌いな人に会わなくてよいのは良い面だと思う。

一面的な見方が自分を救ってくれることもあるし、多面的な見方が自分を救ってくれることもある。見方に正しさがあるわけではないので、「見方の見方」を知るということが大切だろう。その点で、トレードオフという視点は、没頭して行き詰まりそうな時の有用な知恵だと思う。