夢中

夢中、はなんとなく良いものだと思われている。本気になれるもの、情熱を持てるもの、そういうものを見つけた方が良いと言われる。

それ自体はそうかもしれないが、他人にそれを要求するのは勝手だと思う。何かに夢中な人は、他人に夢中を求めたりしない。夢中なのだから、他人の夢中に関わっている暇など無いと思う。夢中や情熱を他人に求める人は、単にその方がその人自身が楽だったり、便利だったりするからだと思う。

 

僕自身は、小さい頃から夢中とか本気とかいうことが苦手で、むしろ正体を失ってしまうような気がして、避けていたように思う。高校まではバレーボールをやっていて、好きだったとも思うけれど、勝ち負けに拘るということは苦手だった。わざわざ勝敗をつけるということに意味を見出せないということもあって、大学からは合気道を始めた。

夢中になれなくてもよいし、まして、無理矢理に夢中を見つけるというのはあまりセンスが無い。日常は多くの場合、なんとなく好きなものと、なんとなく嫌いなもので構成されていて、それを感じ続ける中で、いつも自分の近くにあるものを認識していく。それを深めていく、ということが少しでもできれば、それは十分に尊いと思う。安易に夢中というラベルを付けることで失われるものも多いと思う。

 

もちろん、これは凡人の話で、何かに没頭し、ある道で類まれな事績を成し遂げる人はいるし、人々はそれに憧れる。憧れている、ということは、そうはなれていないということだろう。ただ、憧れるということは尊いので、天才という存在は偉大だと思う。

夢中になれるのであれば、夢中になると良い。ただ、無理に夢中になろうとするのは、やはりどこかで歪みが生じてしまうと思う。まして、他人にそれを求めるのは筋違いだろうと僕は思っている。これは夢中に限らず、「貢献」であったり、「努力」であったり、「論理的」とか「創造的」まで、すべからくそうではないかなと思う。そうありたいのであれば、ただそうあれば良い、と個人的には思う。

時間

結局、物事というのは時間をかけただけしか深まっていかない、と思う。一方で、時間をかけていくことで、すぐにではないが、少しずつ深まっていくものだと思う。

勝負ということになると難しいけれど、自分の中ではどこまでも深まっていくはずだと思うし、深めていこうというものがないと、生きる甲斐というのは些細なものになるように思う。

 

勝負ということになると、拙速がむしろ好ましいこともある。深謀遠慮と同時に、神速果断ということが必要になる。だから、世の中はどちらかというと拙速に溢れていく。

「大器は晩成す」という言葉を知っていても、人は小成を求めるものだと思う。すぐに成果が出ないと嫌になってしまうし、ちょっとした成果で競い合い、一喜一憂してしまう。もちろん、何を大切にするかは人それぞれだけれど、時間を「有用」に使うことによって、長い目で見るとものすごく時間を無駄にしているということがあると思う。

 

時間は大切、ということを意味する言葉はたくさんあって、「時間は大切だから、なるべく有用に使おう、意味のあることをしよう」という意味で捉えられていることが多いように思う。でも、本当は逆だと思う。

時間は大切だから、ちょっと考えて「有用」だと思うことなんかに対して、効率的に使っていてはダメで、むしろ無駄だと感じることに費やした方が良い。有用なことが有用であることはわかり切っていて、無用なことが有用であることをわかるために、時間というものはあるのではないかなと思う。まあ、有用そうなことに対して頑張れない自分への言い訳でもあるのだけれど…。

自然犯

自然に、という表現が難しいが、自然にそれは良くないと感じる犯罪は自然犯と分類される。殺人や窃盗、放火などがこれに当たるとされる。わかりやすく他人の生命や物品を損なうということかもしれない。

自然犯でない犯罪は、法定犯とされる。法が定めた犯罪という意味だが、法にもいくつかの種類がある。規範は法だが、規範を破ることが犯罪かどうかは、その時々の判断にも依るだろう。法と罰は関連は深いが、同じものではない。法も罰も、明文化されていないケースも多く、むしろ、すべてを明文化することは不可能だろう。

 

法整備という観点では自然犯と法定犯という分類は分かりやすいが、現実に適用すると難しいところが出てくる。例えば、嘘をつくことは自然犯ではないだろうが、嘘をついて何かを騙し取ると窃盗になって、自然犯だろう。嘘をつかれて傷ついた、というのは場合によっては法定犯で、慰謝料といったものが払われるケースもある。

殺人は自然犯のように感じるが、戦争という法の下では多くの人を殺すことが勲章になることもある。犯罪に限らず、欧米では「すべては交渉次第」で、米国企業がロビー活動をするのは当然のことだし、無罪判決の割合も日本よりずっと高い。

 

チームラボの猪子さんがピカソについて、「物事っていうのは一点から見るのではなくて、多様な視点で見たほうが美しいんだよって拡張してくれた」と表現していて、なるほどなと感じた。自然犯という概念自体が法定的で、自然はもっとごちゃごちゃしていて、そのままで美しいと考えることもできる。

美しい、という話を始めると、それ自体が視点を縛っていく。そのままが良いのだ、ということに拘り始めると、それは不自然なことになってしまう。自然である、とはとても難しいことだなと思う。

違和感

自分がどう生きたいのか、という問題について、「こうである」という答えを出すことは僕にはすごく難しく感じる。一方で、「これは違う感じがする」と感じることはあって、ただ、それが何故なのかと聞かれると、それはそれで難しい。

違う感じの原因は羨ましさなのかもしれないし、嫌悪感なのかもしれない。嫌悪感を感じるということは、自分の中にも似たような性質があるのかもしれない。

 

もちろん、これはどう考えても違う、ということもある。ただ、何故「どう考えても違う」のかを言葉にするのは意外と難しいなと思う。好きじゃない感じ、気持ち悪い感じ、醜い感じというのがある。

例えば、僕はあんまり偉くなりたいとは思わないと同時に、偉くなるような才覚もない。少なくとも、それに情熱を注ぐことは難しいだろう。そう考えると、情熱なのかもしれない。立派な会社に入りたいとか、有名になりたいとかいうことに情熱を注げるイメージもあまりない。

 

あんまり人や物事に縛られたくないのかもしれない。また、皆がやっていることはやりたくなかったり、競争するのが面倒というのもある。あっちが偉い、こっちが偉い、というようなやり取りも苦手だし、評価をされるのは(ポジネガに関わらず)嫌いだと思う。

「僕」というものはよくわからないのだけれど、僕は僕でありたくて、そういう感覚はきっと普遍的なのではないかと思っているのかもしれない。だから、時代や場所、状況などに依存するものには違和感を感じるのかもしれない。

大局

素朴な話なのだけれど、遠くにあるもののことはわかるのに、近くにあるもののことはわからない、ということがある。そして、人間というのは、近くにあるものに関心を寄せる生き物だと思う。

「冬になれば、どんな星座が夜空に見えるのか」より、「明日は晴れるのか、曇りなのか、雨が降るのか」の方が難しい。ずっと晴れ続けたり、ずっと雨が止まなかったりということはないということはわかっていても、暑くて嫌だなとか、雨ばかりで憂鬱だなとか思う。

 

目の前のことに心を奪われすぎずに、大局を観て、自分の心が望む方向へと進んでいけると良いなと思う。そのためには、大局がどう動いていくのかということを、なるべく理解する必要がある。

教訓めいた熟語で、なんとなく気恥ずかしいが、例えば「晴耕雨読」というのはよい言葉だと思う。晴れていれば田畑を耕し、雨が降っていれば読書をする。理に適っているし、とてもシンプルだと思う。

 

僕は、「今」を生きるということがとても大切だと思っている。そのためには、「今」とは何かということを知らなくてはならないだろう。「今」は今だけではできていないので、今を知るために過去や未来を知る必要があるし、その中の法則や原則を知る必要がある。

今を見つめないと「今」はわからないけれど、今を見つめていると「今」に翻弄される。今を気にしすぎて、「今」を生きられないということになる。「今」というのは、それ自体が大局で、無限なのかもしれないと思う。

慣性

物体に慣性があるように、感情にも慣性があると思う。慣性というのは、ここでは一旦、「車は急に止まれない」みたいな話だと思ってもらえると良いと思う。通常、運動している物体は運動エネルギーを持っていて、何かしらの力を加えないと、その運動を変えることはできない。

 

感情の話に戻すと、例えば、一度好きになった人や物事に対しては、好きであることが持続しやすい。好きだったものを嫌いになるためには、逆の力をかける必要があるし、好きであったものに対して無関心になるには一定の時間がかかる。

嫌いになった人や物事に対しても同様で、基本的には「嫌い」の方向へと進むのが自然だろう。嫌い、へと進み始めたものを好きにするためにはエネルギーが必要だと思う。(本論とはずれるが、脳神経科学の観点から、こういったことをそれとなく説明することはできるのだと思う)

 

個人的には、物体であれ、感情であれ、あるがままである方が好ましいと思っている。好きなものは好きで良いし、嫌いなものは嫌いで良い。その方が自然だし、シンプルだし、楽しいと思う。現実問題としては、好き/嫌いという話と、やってみたい/やりたくないという話があって、「嫌いな感じはするが、やってみたい」というものはまだ良いが、「嫌いな感じがして、やりたいとも思えない」ものとは、なるべく距離を取っていった方が良いのかなと思っている。

「好きだし、やってみたいこと」が30-40%以下だと、感覚的には厳しいと感じる。人格が破綻しやすい。これも感覚だけれど、「好きだし、やってみたいこと」が50-60%くらいであれば、なんとなく自分が向かいたい方向に慣性が働いているのではないかなと思う。

実在

普段はそれほど意識しないけれど、生きることは確かに辛いというか、哀しいというか、そういうことを感じることがある。

それぞれがそれぞれに生きていて、互いに主張があって、何かしらの希望を求めて生きようとしている。そういうことがなんとなく辛く、哀しく感じてしまう。応援したい、もしくは、応援すべきだと思うのだけれど、うまく感情が動かないような感覚を持ってしまう。

 

西田幾多郎の『思索と体験』の中に、「物は種々の関係に入って而(しか)も己自身を維持する所にその実在性を有する」という言葉がある。絶対的に単一であって何らの関係に入り込まないものは、未だ何らの実在性を附与することはできない。真の実在はそれ自身に内面的必然を有ったものでなければならぬ、と。

これは多分に僕自身が空虚だからだと思うのだけれど、僕には内容がよくわからなくて、なんとなく哀しい気持ちになってしまうのかもしれない。自分に内容があれば、他人の内容というものもわかるのだろう。ただ、それがわからないから、人々の希望が揺らぎのように見えて、哀しくなる気がする。

 

「種々の関係に入って而も己自身を維持する」というのは、とても困難だと思う。現実の中に実在する、というのことは難しい。それはつまり、自分というものを知ること、それに徹底することが難しいということだと思う。

人は、というか、少なくとも僕は、自分というものがなかなかわからない。揺らぎも含めて、今ここにあるということがなかなかわからない。それを知ろうとすることが、生きることのテーマだと良いなと思う。

思索と体験 (岩波文庫)

自分

人間には「自我」というものがあって、基本的には自分の思い通りにしたいと思うものだと思う。眠いと思っている時に起こされるとイライラしたり、作業や順序を邪魔されてケンカをしたり、といった感じで、衝突することも多いだろう。

「自」という字には「より」という読み方もあって、何かの始まりであったり、起点や起源であったりという意味合いもある。中国語では「自始至終」で、始まりから終わりまで、という意味になる。

 

この自我というものは、普通の感覚でいうと他者とは切り離されている。「自分」という表現もあって、自らは分かたれている、という感覚なのかなと想像している。自他や彼我という言葉は他者との分断をイメージさせる言葉で、自分と他人は別物であり、かつ、それぞれは独立していることを感じさせる。

そういう気分が二元論であったり、ヘーゲルの弁証法であったりに繋がっていて、彼らの方法では矛盾は対立として記述できて、対立しているということを前提に論理を発展させようとする。これはこれで、とても大切なことである。

 

自分は決して、独立していないと捉えるのが東洋で、それは本質に近いと東洋人である僕なんかは感じるが、他者との繋がりによる存在は曖昧で、論理としても弱くなりやすい。また、繋がっているという感覚から感傷的に過ぎるところも生じて、その点も注意が必要だと鈴木大拙は指摘している。

ケンカを見ると愚かだなと感じることもあるけれど、僕自身もわりとケンカをしてしまうし、それは「自分」がある証拠で、尊いことでもある。衝突は別に悪いことではない。一方で、誰かがいてくれるからケンカができるわけで、自分と他人は別かもしれないけれど、互いによって互いがあるという感覚も大切だと思う。

考える

考える、という行為を考えた際に、普通は何か対象や目的があって、それが解決されればうまく考えられたということになるし、解決されなければ考えるという行為として不備があった、ということになると思う。

例えば、テストの点数であったり、就職活動であったり、日々の仕事や家事であったりにおいて、それが何であるかということを考えると思うけれど、正しく考えられていれば期待した成果や効果が得られる。だから普通は、うまくいったということは正しく考えられたということに繋がる。

 

もう一段階、考えるということを押し進めると、なぜうまくいったのか、あるいはうまくいかなかったのかということを考えることになると思う。うまくいった理由に再現性があれば、次もうまくいく可能性が高いし、うまくいった理由がわからなければ、まだ十分に考えられていないような気がする。うまくいかなかった理由がわかれば、とりあえずはそれを改善するだろう。

そうしていくと、どうすればうまく考えられるのか、に興味が湧いてくると思う。考えるという行為の性質だったり、実際の行動や体験との繋がりだったりを考えていって、知る、という行為が少しずつ見えてくるのではないかと思う。そもそも、うまくいったとは何かも考える必要が出てくる。この段階になると、思考は外というよりは内に向いてきて、己を知るというテーマに近づいてくる。

 

これはベルグソン風に言うと、普通とは反対方向に考えていて、現実に接地していた思考が少しずつ現実から遊離してくる。この思考は必要ではあるが、あまりやり過ぎると精神を病んでしまうので、適度ということが大切だと個人的には思っている。まあ、バランスだろうというくらいの意味合いで。

目的に対しての思考は比較的に簡単だが、その思考はそこだけでは完結しないし、思考のフェーズが変わることに自覚的でないと、考えるということが難しく感じてしまうだろう。自分が何を考えているのか、たまには考えられると良いなと思う。

綺麗な世界

加藤一二三は少年時代にある観戦記を読んで、「将棋には巧い手、いい手というものがあって、いい手を差し続けていけば成功するものなのだ」と受け止め、それが将棋観に影響を与えたという。

また、将棋を始めた頃に詰将棋の本を読んで、「将棋にはすばらしい手がたくさんあって、そのすばらしい手で攻め続けていくと玉を詰ますことができるんだ」と感じたという。詰将棋に取り組むことは、将棋の綺麗な世界という一面を知ることになる、と。

 

こういう比喩は好きではないが、それは人生にも通じるところがあると、個人的には思う。綺麗な世界は、人に生きる根拠を与えてくれる。特に少年少女の時代は、綺麗さを、正しさを、すばらしさを希求するものだと思う。

ただし、実際に生きていくと綺麗ではない世界というのも見えてくる。綺麗な世界を見つめ続ける強い精神は特異な才能で、老いても若いままの美学に生きるというのは、ほとんどの人には不可能だろうと思う。むしろ、綺麗でない世界に絶望する人もいるだろう。

 

加藤一二三は、詰将棋は一生をかけて夢中になるようなものではない、とも言う。「魅力はあるけれども、そこそこのところでけじめをつけたほうがよい」と。

綺麗な世界でないと知った時に、世界はより拓かれていく。世界は完全に綺麗ではないかもしれないけれど、完全に綺麗でないわけでもなくて、その広がりがまた綺麗さを見せてくれることもあると思う。世界が綺麗でないことは絶望ではなくて、希望なのかなと思っている。

ユリイカ 2017年7月号 特集=加藤一二三 ―棋士という人生―