臆病

何かをしようとすると、間違えそうだと思う。正解を知っているわけではないのだから、間違っているのかどうか、なんてことはわからないのだが、性格の問題なのかもしれない。

もしかしたら、何かをしたときに、「きっと正解だ」と思える人もいるのかもしれなくて、それはそれですごいことだと思う。もちろん、それはきっと間違っているのだから、より良い活動のために最適なのかはわからないけれど…。

 

間違えないということを重要視し始めると、間違えない問題定義をすることになる。僕は、それについては無意味だと思っているし、間違えない問題定義をすること自体はそれほど難しくないと思っているので、あまり興味を抱かないのだが、「きっと間違っている」という感覚の中で何かに取り組み続けるのは、それなりに胆力の要ることだと思う。

 

人間の仕組みからして、脳内に「出来る状態」の回路がない状態では参照できる情報がないのだから、出来る/出来ないの判断はつかない。どうすれば出来るのかという問いに答えることも出来ない。

だからやってみるしかないし、正しいとか、間違っているとかではなく、やってみたいかどうか、やってみて楽しむだけの余裕を持てるかどうか、ということを考えた方が良いのだと思う。

 

「間違ってもいい」と思えるほど、器量が大きくないのは、人としては少し残念…なのだが、適当に真剣に取り組んで、他人を恨まない程度の楽観さで以って、物事に取り組めると良いなと思う。

基本的には、他人からはバカだとか、愚かだとか、くだらないとかと思われていた方が良い。そうでないと、物事に取り組むのは、というか、日々を生きていくのはとても困難になってしまう。

 

僕は臆病だけれど、生きるという行為は多少なりとも楽しめると良いなと思っている。

不規則さと形の起源

If the world were totally regular and homogeneous, there would be no forces, and no forms. Everything would be amorphous.

But an irregular world tries to compensate for its own irregularities by fitting itself to them, and thereby takes on form.

C.Alexander, “The Theory and Invention of Form”, Architectural Record, vol.137, pp.177-186, 1965

“形”が存在するのは、世界がイレギュラーである(不規則さを有している)からである。クリストファー・アレグザンダーは、「世界が完全に規則的で、均質であれば、そこには力が無く、形は存在しないだろう」と考察している。自然科学的な立場から見ると、物理法則や化学法則は規則的であるかもしれないが、それぞれの時空点に働く”力”が均質でないことが、世界に”形”を出現させている。そうだろうと感じる。

クリストファー・アレグザンダーのこの考察は、ダーシイ・トンプソン(D’Arcy Wentworth Thompson)が『生物のかたち(On Growth and Form)』などで導入した、「diagram of force(力の図式)」「the functional origins of the form(形の機能的起源)」というアイデアと通じている。

 

世界の不規則さによって”形”は存在する。逆にいうと、”形”は世界の不規則さを調和させている。調和の度合いが高ければ、その”形”は長期間に渡って安定して存在するだろう。一般的には、「素晴らしいデザイン」として長く愛される存在になるということだろうと思う。

調和の度合いが高いというのは、広い時空間に対して、その”形”が適合(fit)しているということだと思う。デザインにおいては、それに関与する時空間の要求が問題を定義する。関与する時空間の要求、その文脈における力の全体を、”コンテクスト”と捉えてよいと思う。

 

世界が不規則であるがゆえに存在する「”コンテクスト”が持つ”力”」を理解し、それへの”適合”を通じて、調和的な”形”を生み出す。これがデザインという行為が持つ構造である、とここではしたいと思う。

 

これでデザインを検討する上で重要となる”コンテクスト”、”適合”、”形”の3つの要素が導入され、それぞれの要素が持つ内容がなんとなく捉えられたように思う。

ここからは”コンテクスト”と”形”を繋いでいく”適合”の方法について、理解を深めていきたいと思う。

乖離

月並みな話なのだけれども、不意にとても寂しくなったり、孤独を感じるということがある。

もともと人間は孤独なのだと思っていることもあり、その感情は戸惑いとともに訪れる。誰でもそうなのかはわからないが、少なくとも僕の場合は、「孤独」をわざわざ意識してしまうということに戸惑いがあるのだと思う。

 

人間が寂しさを感じることは、ヒトの種として生き残っていくための戦略が「集団」にあるであろうことを考えると、重要な機能だと思う。

寂しさを感じなくなったら、そして、なお生きていこうと思うのであれば、「集団」でいることとは異なる強さを持たなくてはならないような気がする。逆にいうと、「集団」でいること(それも、かなり大きな集団を形成すること)は、かなり特殊な強さだろうと思う。

 

クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』に、「世界は人間なしで始まったし、人間なしに終わるだろう」という有名な一節がある。もちろん、レヴィ=ストロースの思想を深く理解しているわけではないが、なんとなく、そういう気がする。

「世界それ自体」と、「人間によって構成された世界」には乖離がある。「世界それ自体」に純粋に向き合っているときは、孤独であることがあまりにも当然なのだから、孤独に戸惑うということはない。むしろ孤独は心地よい感情であるように思う。ただ海を眺めているときのような感情が、個人的にはそれに当たる。

 

「人間によって構成された世界」は、生きていくために作られた道具なのだが、やはり世界であるから、「世界それ自体」と混ざっている。そのあたりに、寂しさや孤独に戸惑うという感情があるのではないかと思う。

社会的参照

最近知り合った方が発達心理学を専攻しており、乳幼児の「社会的参照」をテーマとしているそうで、少し話を聞いた。社会的参照というのは、二者間(例えば、「母親と子ども」など)ではなく、三者間(例えば、「母親と子どもと、母親の友人」など)で働く、情報参照と行動調整の一連のプロセスのことをいうことらしい。

正確に理解できているかはわからないが、直感的には、「母親の顔色をうかがって、母親に対する態度を調整する」のは二者間の行動調整で、「母親の友人が遊びに来たときに、母親の顔色をうかがって、その友人に対する態度を調整する」という三者間の行動調整が「社会的参照」である。それなりに社会的な機能だと感じるが、おおよそ1歳くらいから観察されるらしい。

 

まあ、「顔色をうかがう」「雰囲気を読む」と言えば簡単だが、おもしろいなと思ったのは、「情報参照」と「行動調整」のそれぞれのプロセスを詳細に理解していく必要があるという点である。

行動調整は実際に行動として観察されるので、「行動調整が起こった」ことは確認しやすいが、それが実際にどのような情報を参照して起こったのかという点は、特に言語で思考を確認できない乳幼児についてはまだまだわかっていないらしい。母親と父親がいる時に、なんとなく母親の方を参照しそうな気がするが、本当に父親を参照する割合が低いのか。参照する相手は、どのように決まるのか。なんとなく表情を参照している感じがするが(「顔色をうかがう」という表現もこの感覚を反映しているのではないかと思う)、実際に何を参照しているのか。

 

乳幼児が人の顔を認識する際に、画像加工によって完全に左右対称にした写真を見せた場合、そのような加工をしていない写真を見せた場合に比べて「顔として認識する割合が低い」という話も聞いた。これもなんとなく、そんな気がする。

実際にやってみるとわかるが、人間の顔は左右反転させると違和感がある。よくよく見てみると、人間の顔というのは左右は非対称で、ちょっとずれている。局所的な対称性をはらみつつ、全体としては非対称で、どこか荒っぽい。それが「生き物らしさ」を構成していたりするのかもしれない。

 

僕たちが、何に対して、何を参照して、どう判断をして、どう振舞っているのかというのは、案外わからないよなと思う。

デザインに関する前提

The form is a part of the world over which we have control, and which we decide to shape while leaving the rest of the world as it is.

The context is that part of the world which puts demands on this form ; anything in the world that makes demands of the form is context.

Fitness is a relation of mutual acceptability between these two.

C.Alexander, “The Theory and Invention of Form”, Architectural Record, vol.137, pp.177-186, 1965

デザインという行為に取り組む際に、捉えておいた方が良い重要な前提の1つは、「我々はすべてをコントロールすることはできない」ということである。むしろ、「我々がコントロールできるのは、世界のごく一部分である」と思う。

例えば、住環境をデザインしようと考える。もっと具体的に言えば、賃貸で家を探そうとする。そうすると、家賃相場というものにぶつかる。普通の感覚では家賃相場はコントロールできないので、私たちはコントロールできる範囲内で、要求を満たす家を探すことになる。そういう限界や境界の中に、デザインという行為はある。

 

クリストファー・アレグザンダーは、「この世界で形に対する要求となるものはすべてコンテクストである(anything in the world that makes demands of the form is context)」として、”コンテクスト”を定義している。

“コンテクスト”をこのように大きな概念として定義すると、”形”が”形”として世界に出現した瞬間に、”形”それ自体が”コンテクスト”に取り込まれる。その形自体が、形に対しての要求となる。

 

“形”をデザインしようとしている段階において、我々は”形”をある程度コントロールできるが、デザインが進むにつれて、”形”は”コンテクスト”として、”形”に要求する世界へと変化する。”形”自体が制約となっていく。

これは、組織デザインの例などで考えるとわかりやすいと思う。組織のデザインに着手し、その輪郭が見えてくると、その輪郭やそれを形成したプロセスに含まれているやり取りが、組織デザインに対する制約となってしまう。

 

開かれた世界における、そういう限界と循環がデザインという行為の構造に含まれている。変化を含めた構造を、デザインという行為の中に含められると良いが、人間の思考は流動的なもの、不安定なものを好まない傾向があるため、なかなかに難しい。

「完璧にはならない」という現実も、デザインをしようと考える人間の思考を悩ませることになる。通常、人間はかなりシンプルにしか物事を捉えたり、考えたりすることができない。

 

こういった前提を認識した上で、なるべくシンプルなところから、「”コンテクスト”の要求に応える”形”を出現させる」という行為、つまり、デザインについて考えてみたい。

直観と意志

愛とは、直観と意志である、と思っている。必ずしも出会った瞬間に来るわけではないので、意外と直観であるということがわかりづらいこともあるが、愛するという行為には、確かにそうなるだろうという直観、確かに愛してしまうだろうという確信が必要だと思う。

この直観を、「恋に落ちる」という言い方をするのかもしれない。むしろ、「確かな誤解」なのかもしれない。

 

エーリヒ・フロムに『愛するということ』という著作がある。原題は『Die Kunst des Liebens』、英訳すると『The Art of Loving』となる。愛するということは技術である。

そして、技術には、それを身に付けて、適用しようという意志が必要だと思う。

 

直観と意志によって愛が成立するということと、誤解と技術によって愛が成立するということは、構造的には似ていると思っている。直観はほとんど誤解だし、意志には技術が求められる。

そして、愛というのは、そういうもので良いのではないのだろうかと思っている。誤解に対して、技術を適用してでも、それを守ろうとするという行為自体に、尊さがあるのではないかと思う。

 

「恋に落ちる」ことと、「愛を貫く」ことの、いずれかが尊いかというと、なかなかに難しいように感じる。まあ、それはバランスなのかなと思う。

なぜデザインに興味があるのか

The ultimate object of design is form. Every design problem begins with an effort to achieve fitness between two entities: the form in question and its context.

C.Alexander, “The Theory and Invention of Form”, Architectural Record, vol.137, pp.177-186, 1965

クリストファー・アレグザンダーは初期の論文において、「デザインの究極的な目標は形である(The ultimate object of design is form.)」と表現している。

これについて、『クリストファー・アレグザンダーの思考の軌跡―デザイン行為の意味を問う』という書籍において、長坂一郎は「すべてのデザインに共通するもっとも確実なこと」として、アレグザンダーがこの表現を用いていると考察している。

 

生きていく上でおそらく確からしいのは、「生きていると、”今”は確かにある」ということだと思っている。デザインにおいて、”形”が確実にあるように、生きることにおいては”今”が確実にある

そして、”今”をコンテクストの中でいかにあらしめるかが、生きる上での究極的な問いなのではないかと思っている。

 

この問いには大きく2つの要素が含まれている。”今”と”コンテクスト”である

 

“今”に対しては、きわめて実践的に扱われる必要があると思っている。日々、当たり前に生きている中で、今をどうしていくのかが問題だし、「只今」という禅的な感覚に惹かれるのは、私にとっては、それが理由であるように思う。

ここで言う”今”は、概念としては大きく捉えていて、宇宙の歴史から見ると「地球」という”今”があるし、人類の歴史から見ると「近代」という”今”があるし、禅における”今”はおそらく時間的な広がりを持たない概念として「只今」と表現されている。

 

“コンテクスト”に対しては、様々な視点で理解を深めていく類のものだと思っている。例えば、私が易経に興味を持つのも、惑星科学に興味を持つのも、その根源は”コンテクスト”の構造に興味があるからだと思う。

これがなぜかと問われると、明確に回答はできないが、「“コンテクスト”を完全に把握することも、言語化することもできない」。”コンテクスト”が流動的だからなのかもしれない。いずれにせよ、探究するに足るテーマだと思う。

 

「”コンテクスト”を完全に把握することも、言語化することもできない」という感覚から、”コンテクスト”に適合する”形”をゼロから生み出すことは困難を伴う。そこに実践的であることの意味があり、実践によって”コンテクスト”と”形”の間の「不適合」を発見でき、不適合を排除するという手法で適合を探っていくことができる。手法としては「プロトタイピング」とも呼ばれる。

“コンテクスト”と”形”という構成要素ではなく、それらの結節点(間)に発生する”コミュニケーション”の集合として社会を捉える観方もある。ルーマンなどが提示する社会観がそれに当たる。アラン・クーパーのインターフェースデザイン理論や、ユーザビリティの概念も、「間に発生するもの」に着目したものであるように思う。

 

いずれにせよ、私は存在に興味があり、それは形を有していて、その形はコンテクストとのコミュニケーションによってなんらかの”支配”を受けている。その”支配”について理解し、その形の在り方について理解し、存在への関心を満たしたいのだと思う。

“デザイン”という問題に興味を惹かれるのも、これが理由なのではないかなと思っている。

見えないもの

ラーメンズのコントに「不透明な会話」という作品がある。別に作品の主題とは関係ないのだと思うが、「見えないものは無い」のか、というのは大切な問いなのではないかと思っている。

実際のところ、人間は「見えないものは無い」と思ってしまうことが多いように感じる。

 

作品の中では、「見えないって言ったって、ちょっとは見えるんだよ」という台詞が登場するが、個人的には、「見えないけれど観じているもの」というものは、確かにあると思う。「みえる」の定義にもよるが、心地よさであったり、思いやりであったり、愛というものは、見えないけれど、我々は確かに観じている。

別に「感じている」と韻を踏んでいるわけではなくて、たしかに「みえる」のだという感覚がある。もしかしたら、感覚器官が脳に信号を送るために必要な励起エネルギーは満たしていないが、刺激を総体として身体が受け取っており、全体性としては脳が認識する状態にあるのかもしれない。

 

最近は、心地よさや思いやりを数値的に可視化をしていく取り組みもあって、それ自体はおもしろくて意味があると思う。それで解釈可能なことは多いだろうと思うし、論を進めていければ、なんとなく意味づけを行えるだろうという気もする。

一方で、生きるという行為においては、観じていることを可視化することはナンセンスだとも思う。おそらく、人間には究極的には「見えない」し、しかし、それがあることによって観じること、感じることがあれば、それで十分であるという気もする。

意味を問うこと

言語化する必要があるかどうかは別にして、自身が取り組んでいることの意味を深く認識することは大切だと思う。かつ、なるべくなら、それが純粋なもので、その純粋さに生命や精神を沈めていけると良いなと思う。

 

『韓非子』の冒頭は、「説難篇」から始まる。政治の在り方を説明する前に、主君に対して、誤解されずに説くという行為がいかに難しいかということが説かれる。

小林秀雄は処女作である『様々なる意匠』において、評論・批評という行為の意味を最初に論じている。佐賀鍋島藩の武士道論、『葉隠』では、「諍いを避けるために、この書物は燃やしてしまうように」という但し書きが冒頭に記されている。

 

意味がないかもしれないことを、純粋な魂で深めていこうとすることが尊いと思う。そのような取り組みによって、その人なりの芯が通ってくるし、その頑なさが寛容さを生むのだと思う。

深い優しさは、真の頑なさから発するのではないだろうかと思っている。もちろん、やってみないとわからないが、そうあれると良いなと思う。

智慧と愛

仏陀の精神、この仏教の真髄を成すものはなんであるかというと、「般若(プラジュニャ)」と「大悲(カルーナ)」である、と鈴木大拙は『禅と日本文化』の中で説明している。

その本質を捉えることは困難であるという前提の下で、ものすごくシンプルに言うと、「智慧」と「愛」。それが、仏陀の精神ということになる。

 

無明と業によって、「智慧」は厚く、重く覆われている。言葉によって、惑わされている。それが人間だろうと思う。

 

根本的な意義を洞察していくことに、修養がある。「智慧」を得ることで、「愛」が自在に働くことができる。智慧は愛に至る。

なんとなくわかるが、あまりよくわからない。けれども、そういうものがあるのだろうということを、なんとなく感じる。

 

問題と論理、欲望と言葉の世界の中で、そういう何かを実践し続けようとすることに、個人的な探究を持ちたいと思う。