自分の眼

自分の眼で見ることは想像以上に難しいと思う。わかりやすい例で言うと、噂を信じてしまう、噂で印象を持ってしまう、他者の評価をそのまま受け止めてしまうといったことはあまりポジティブではないが、やってしまいがちだと思う。

もちろん、例えば噂には噂の根拠があって、そこにはなにかしらの問題があるはずだが、自分の眼、自分の印象というものを信じた方が、他者との関わりという点では好ましいのではないかと僕は思っている。

 

ありのままに見ることができなかったり、たやすく他人の言葉に左右されてしまったりするのは、ある意味で適応だと思う。他人と同じものを見ているという「気分」が、人と世界を繋いでいる。逆に、見ているものが異なると主張すれば、少なくともその人とは世界を断絶しているというメッセージになるだろう。

世界は情報に溢れて、より適応を求める方向に落下しているように思う。例えば、多様性やマイノリティに対する主張も、アンチテーゼであるとは思うけれど、どちらかというと均質化を求めている。多様性を認めろ、という強制は冷静に考えるとナンセンスだが、人は他人の眼で、自分の眼をアップデートしていかなくてはいけないということかもしれない。

 

「自分の眼」のどこまでが自分の眼で、どこからが他人の眼なのか。他人の眼を気にしているのも、「自分の眼」なのか。

あんまり考えすぎると病気になりそうなので、適当なところで止めておいた方が良さそうだけれど、なんとなくの直観だったり、好きとか嫌いとかいう感覚だったりというものを忘れないことは大切かなと思う。

怖さ

何かを怖いと感じる時、それは何故だろうと思う。特に人というものを怖いと思う時に、僕は何に対して、それを感じているのだろうかと思う。

 

なんとなく、わからないことが怖いような気がするけれど、何がわからないのかは良くわからない。前提として、怖いと感じるのは自分が関心を持っている相手のような気はしていて、僕はその人と良好な関係を築きたいと思っている気がする。そういう人の戸惑っている様子、浮かない顔、不自然だと感じる無言は怖い気がする。

変数、具体的には人の数が増えると不安が増すように思う。人は均衡を求めていて、どこに落ち着くのかがわからない、新しい均衡に移行しなくてはならない、そういう状況は不安を生じさせる。相手が何を求めているのか、ということよりも、そもそも自分は何を求めているのかの方が大切だと思うのだけれど、どうしても他人の目を気にしてしまう。他人の目は常に自分の目で、そんなものは無いと思っていたとしても。

 

僕が怖いと思っている時に、相手も怖いと思っているのかもしれない。だからこそ、自分が大切にしているものを認識して、なるべくしっかりと今を生きることが大切だと思う。怖さというのは伝搬して、相互に大きくなってしまう。疑心に暗鬼が生じると、簡単には戻ることができない。

怖くて、不安だと、頑なになってしまう。頑なさは人を孤独にし、孤独を忘れるためにさらに人は頑なになる。境界がなければ生きていけないが、人はまた、境界によって死ぬものだと思う。

憤り

幼い頃は、自分の目に見えること、自分の感じることでしか世界を理解できず、世界に何かを働きかけることができると思っている一方で、臆病で、むやみやたらと攻撃的で人を傷つけていたと思う。今もやはり人といると、そういうことをしてしまうことがある。

ただ、傷つけたり、傷つけられたりというのはやっぱり嬉しくはなくて、あまり生産性が高いようにも感じないので、他者との境界が争いを生む状態はなるべく少なくしたいなと思う。単純に、疲れる割には大して得るものがないと感じるのかもしれない。

 

人を傷つけてしまう理由はいろいろあると思うけれど、パッと思いつくもので言うと、「自分自身が傷つきやすい」、「他者に影響を及ぼせると勘違いしている」の2点だと思う。どちらか一方が強いこともあれば、双方とも強いこともあると思う。

あまり傷つかずに、他者に影響を及ぼしている気分になれるものとして、コミュニティがあると思う。ディベートやディスカッションという形で、衝突を合理的なものとして置き換えているケースもあるが、個人的には集団というのは人を守るためにあると同時に、人を傷つけるためにあると思っている。コミュニティが良くないというよりは、人というものは、人といるとケンカするものである、というくらいのことかもしれない。そもそも集まるという行為が、他者の排斥を含んでいる。

 

僕は人といるのが基本的には苦手なので、憤りや傷つけ合うことを避ける方法として、なるべく自分が何をどう感じていて、何を美しいと思っていて、本質をどう考えているのかを、他者を交えずに思考することを選びたいと思っている。自分にとって好ましいことであれば、他者がどんなに批判的でも対処できると思えるくらいに思考したいと思っている。きちんと考えていくと、むやみやたらに、なんでもかんでも批判されたり、何もうまく進まなくなったりということは少なくなるのではないかという期待もある。

他者に対して必要なことは感謝だと思う。そして、期待ではないと思う。僕が誰かの期待に応えないように、誰かも僕の期待に応えたりはしないだろうし、応えられても困るだろうと思っている。

健やかさ

健やかに生きるということは例えば、きちんと睡眠を取り、ちゃんとした食事をして、適度に身体を動かし、知恵を求めて、なるべく簡素で清潔にして、欲を薄くして過ごすことだと思う。

人間には自分というものがあって、これがいろいろなものを動かしていく一方で、邪魔をする。本当はぼんやりと、木偶の坊のように生きるのが良いのかもしれないと思うけれど、自分というものが邪魔をする。安心というのは自他不二であったり、無縁であったり、つまり、一切すべてを等しく、斉しく観るというところから現れるのだと思うけれど、偏りがあって、不安があるから人間だという気もする。

 

大切なことは、自分の健やかさがどういうものかを深めていくことだと思う。他者の健やかさを損なわない方が調和的だと直感的には感じるが、攻撃的な人も全体の調和の中で存在している。今があるということは、世界は不調和も調和として許容しているということだと思う。

普通の人は、静かな場所で座禅を組んで悟ることはできないと思う。それは、健やかさを知るためのきっかけにはなるかもしれないけれど、調和は混沌の中にあって、不調和や無秩序を満身で感じることで垣間見えてくるという類のものだと思う。

 

人間というのは不安だからだろう、喧嘩ばかりしている。ただ、外から見るとそう見えるだけで、どちらかと言うと、不安だから寄り添っていて、寄り添うためには喧嘩をしないといけないのだろう。「仲間」みたいなものが好きな人の方が、喧嘩をしているように感じる。

あまり複雑に考えずに、他者も自分も、なるべく疑うことも信じることもしないというのが、僕にとっての健やかさかなと思う。

均衡点

僕たちが今、そうだと感じていることは、基本的には現時点での均衡だと思う。人間関係にしても、ビジネスの競争優位(あるいは劣位)にしても、世の中の価値観にしても、国際政治にしても、様々なバランスによって、今の状態(均衡点)のあたりになんとなく落ち着いているというものに過ぎない。

 

均衡には一定の必然性があって、それが成立している条件、それがもたらしている効用、それが及ぶ範囲などは常に考えておくべきテーマだと、僕は思っている。それは日々を楽しむために大切な知恵だと思う。

均衡は当然、移行する。例えば、あと10億年すれば、太陽は明るくなり、海が蒸発して今の生物は地球上には住めなくなる(もう少し正確には、太陽エネルギーがもたらす海の蒸発が地球を暴走温室状態という、別の均衡へと移行させる)。また、100年前の価値観と今の価値観が、異なる均衡点にあることはあまり議論を必要としないだろうと思う。

 

均衡を成立させている条件とほぼ同義かもしれないが、均衡の移行をもたらす要因を知り、別の均衡の可能性を知ることも大切だと思う。

安定度が高い均衡も、低い均衡もあると思うけれど、すべての均衡はいつか移行する。安心し、かつ、いきいきと日々を過ごすためには、自分にとって基盤となる均衡の安定度を見極めつつ、自分がワクワクするような次の均衡の可能性を探り続けることが大切なのかなと思う。

価値観の集合と選択

社会というのか、集団というのか、そういうもので生きる以上、それを成立させる秩序が必要だと思う。『CODE』の中で著者のローレンス・レッシグは、以下のように記している。

ふつうは、競合する価値観集合を記述して、その中でどういう選択を行うかを記述すると、その選択は「政治的」と呼ばれる。それは世界がどのように秩序化されて、どの価値観が優先されるかという選択だ。

(ローレンス・レッシグ 『CODE VERSION2.0』(日本語)より抜粋)

集団においては、価値観の選択をもたらす活動が権力と結びつきやすい。と言うよりも、価値観の選択は権力そのものに近い。政治はもっとも顕著なもので、経済もそうだと思う。

 

価値観は一義に決められるというよりは、均衡点・平衡点が決められるという方が正確だと思う。権力が常に、すべての場所において発揮されることはないのだから、権力を持つ者が見通すべきは均衡になる。逆に言うと、現在の均衡から新たな均衡への移行を為せることが政治であれ、経済であれ、権力者に求められる才覚になるだろうと思う。

一方で、個人の人格は自由で、秩序に対して配慮は必要だが、(一定の範囲内であれば)どのような選択に対しても安全であった方が好ましい世界であるように感じる。それはつまり、あまりに均質的で、かつ、それが強制的だと生きづらいということかもしれない。

 

世界はミクロで見ると非平衡状態で、マクロで見ると平衡状態だと思う。非平衡の擾乱は常に存在するが、その擾乱が拡大することでマクロの平衡状態が移行するということかもしれない。

今日を生きる方法

生きていると不安を感じる。今日を大切にしよう、と言われても、そんなことはできないと感じる。

 

「今日が人生最後の日だと思って生きる」、という言葉があるけれど、それは「逆」だとピーター・ティールは説いている。

“Live each day as if it were your last.”

The best way to take this as advice is to do exactly the opposite. Live each day as if you will live forever. That means, first and foremost, that you should treat the people around you as if they too will be around for a very long time to come.

The choices that you make today matter, because their consequences will grow greater and greater.

– Peter  Thiel

今日が人生最後なら、今日を大切になんかしない。今日で終わらないから、大切にすることに意味がある。今日、身近にいる人は、今後もずっといるかもしれない。今後も続くのであれば、大切なものを大切にした方が良い。

 

目の前の物事や人に向き合っていくこと、なるべくなら毅然としてそれを見つめること。今日をなんとか生きる方法は、僕にとってはそれくらいしかないと思っているし、できる限り、そうありたい。すごく難しいことだけれど、今を見つめるエネルギー、今を生きるパッション、そういうものを養うことが大切な修養だと思う。

単純さ

単純であることは、幸せなのではないかと思っている。何に単純さを感じるかは人それぞれだと思うけれど、その人にとって単純なことは幸せに繋がっているように思う。

 

僕の場合、大切な人といる時間も大切だけれど、1人でいる方が幸せを感じやすい。豪華も嫌いじゃないけれど、素朴な方が幸せを感じやすい。仕事の成果にはそれほど興奮しないけれど、朝や雨上がりの太陽にはワクワクする。自分が気付いていなかったり、知らなかったりすることに出会うのも興奮する。

僕にとっては、1人や太陽や、新しい観方を知るということは、とてもシンプルということだと思う。すごく複雑に見えるもの、よくわからないもの、解けそうにないもの、そういったものも本質はシンプルなはずだと思っているので、基本的には好きだと思う。

 

逆に、なんとなくわかってしまうもの、にはそれ以上の興味を持てないように思う。新しい視点であっても、観方としてありふれていれば、興味を感じづらい。もちろん、どんなものもありふれてはいないはずだから、僕にはそう感じられるというだけだけれど。

単純さ、とは心の作用だと思う。それがそのまま、自分の中に流れ込んでくるという感覚。そういうものを大切にできると良いなと思う。そういうものを大切にできないと、心が死んでいくように感じる。

意味の問題

世の中のほとんどの問題、おそらくはすべての問題は、「意味はわからないけれど、解くことはできる」というものだと思う。

僕は意味という問題にはそれなりに興味があって、意味であったり本質であったりを考えることが好きだと思う。一方で、歳を取ったからか、いわゆる「仕事」をし始めたからかはわからないけれど、意味と問題解決を切り分けることを覚えたし、切り分けた方が意味を探究するために合理的なこともあると思っている。

 

先日、面接でお話しした方が、「勉強が嫌いだから、理系を選んだ」と教えてくれた。理系の方が答えが一義に決まりそうで、めんどくさくなさそうだと思ったらしい。どうせやらなきゃいけないなら、面倒は少ない方が良い。彼女にとっては、(おそらくは忌々しいという意味で)純粋数学の存在理由が気になったらしく、大学では数学を専攻しているという。

また別の方は、受験のために勉強するという枠組みに違和感を感じて、高校から海外に行ったが、就職活動で同様の、枠組みによる違和感を感じていると教えてくれた。

 

どちらの話も、意味と問題解決について語っているのだと思う。前者はどうせ意味なんてわからないから、解くのは楽な方が良いと言っていて、後者は意味がわからないから、問題解決に取り組むのが苦しいと言っているのだと思う。

意味を探究するためには、問題を解くことも必要だと思う。解くことで見えてくるものがある。但し、解いているときには実は意味はわかっていないという点は大切だと思う。すごく単純な話として、僕たちは「1+1」の意味はわかっていなくても、テストで「1+1」という問題は解ける。覚えている、解ける、わかる(「わかる」という行為が可能かは別として)はまったく別の行為で、それぞれの効用と限界を自覚することで思考のスムーズさを保てるように思う。

善悪

僕は人には優しくあれた方が良いし、人を殺したり、自殺をしたりということは、とりあえずは調和的でないと思っている。人が悲しむということ、人が死ぬということは、やはり何かを喪う感じがする。

 

なぜ人を殺してはいけないのか、という問いに対するよくある回答は、人間の、他の生物に対する競争優位の源泉が「集団」であるというものだと思う。集団であることによって、無力な人間は他の生物より優位を保っている。集団を損なうような徳性は、どちらかというと排斥されていくのだという説明である。

中村元によると、初期仏教はもう少しシンプルな説明を行なっていて、「すべての人々は生を愛し、死をおそれ、安楽を欲しているから、自己に思い比べて、他人を殺してはならぬ、また殺さしめてはならぬ」という。控えめに言っても、僕はあまり殺されたくはないし、そうであれば、殺さない方が良さそうである。

 

一方で、機能としては人を殺したり、自分を殺したりという能力を人は有している。それはそれで、よくよく考えるべきことだと思う。そこにもきっと、何か意味があるはずだろう。もしかしたら、知能の発達のために必要な徳性なのかもしれない。

愛するだけでなく憎むこと、善だけでなく悪。そういう観念、そして、二元論に縛られることも、そこから脱しようとすることも、すべては人間の徳性だろう。大切なことは、容易に信じないということだと思う。おばけの存在は信じていないのに、宇宙の存在は信じているというのは、いささかおかしい。そういう感覚は、わりと大切なことだと僕は思っている。