エスカレーター

今年の春は、ベランダに小さなプランターを並べて、いくつかの野菜を育てている。あまり難しいものだとうまくいかないと思うので、なるべく簡単そうなものということで、ラディッシュ、小松菜、カブ、ニンジンの種を蒔いてみたのだけれど、我が家のベランダの日当たりの良さと気候の良さのおかげで、無事に芽を出して、少しずつ大きくなっている。

成長の様子を見ていると、当然だけれど、野菜によって得意な気候が異なっていて、小松菜がぐんぐん伸びるのに対して、ニンジンはもう少し気温が上がらないとしっかり伸びないらしい。種ごとの個性もあって、人間の都合としては生育を見ながら適切に間引くこと、と一般には説明されているので、「どれも元気そうだけど…」とためらいながら少しずつ間引いたりしている。

 

芽が出て、それが少しずつ伸びていくと嬉しいし、そもそも花ではなく野菜にしたのは、最終的には食べられるというよこしまな気持ちもあって、毎日お水をあげているのだけれど、毎年、土を作って、育て方であったり、品種であったりを改良し、より自分が目指す育て方を探究していけるかというと、そういうイメージはあまり持てていない。

どんなに些細なことでも、何かを続けていくということは大変なことだと思う。まして、それが高度な技や知識となれば、次元も違ってくる。とても永く続く窯元を継ぐ陶芸家の方が、技を継いでいく事象を「下りエスカレーターを逆向きに上がり続ける」ようなものであると表現されていて、それはとてもわかりやすいなと感じた。

 

歩みを止めると失われていくしかない。しかし、上がり続けても上に登っていけるかはわからないし、まして「高み」のようなところは遥かに遠い。永く続いているものであればあるほど、断絶した時代も経験しているだろうから、その「高み」がどこなのかもわからなくなってしまうだろう。

学問であったり、武道であったり、どんなものでも探究とは「下りエスカレーターを上がり続ける」ことだと感じる。僕には何か継がなければならない「高み」があるわけではないのは、ある意味では恵まれている。終わりのない下りエスカレーターを上がり続けるようなことを、自分なりにどこまで想像しながら生きていけると良いなと思う。